北海道歌旅座コンサートスケジュール

歌旅座テレビ


「えり~もの~春は~ぁ~ 何も~ない~春です~🎵」

昭和49年に、森進一が唄い大ヒットした「襟裳岬」。
えりも町の名を一躍全国に知らしめた歌です。
がしかし、発売当初「何もねぇっつーのはどーゆーこどだっ!」と、
作詞した岡本おさみさんへ町民から猛烈なクレームが殺到したとかしなかったとか。

そんな出来事から4年後の昭和53年。
笛舞という地区で小笠原陽介は産声をあげます。

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後ろにあるダイヤル式のブラウン管テレビ。
小さなツマミを引くと電源が入るタイプで、姉はここに紐を結び、
離れた所から引っ張って「リモコンになった」と喜んでいました。 

幼少期、遊ぶ場所と言えばもっぱら海、そして山。
友達とともに自転車で暗くなるまで駆け回っていました。

皆さんご存知の通り、我が家は古くから昆布漁を営む家。
夏は昆布一色の生活になります。
多くの家は、漁場へ近い浜辺に納屋や小屋を建て、
夏の間、そこに生活の拠点を移すほどに忙しいのです。
小笠原家にも「浜の小屋」と呼ばれる"別荘"があり、
そこで過すごすのが、夏の楽しみでした。

雄大な太平洋の潮の香りに包まれ、伸び伸びと過ごした少年時代。

小学5年生の冬のことでした。
ある朝、目覚めるとやけにテレビが騒々しい。
昭和64年1月7日、天皇崩御。
そう、この日が昭和の最後の日となったです。

小笠原陽介、11歳の誕生日。
私が過ごした昭和はぴったり11年間でした。


その中で、一番色濃く残っている昭和の風景といえば、
生まれ育った「家」です。

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そびえ立つ「メローイエロー」の大瓶が懐かしいですね。
この緑色のテーブルで毎日食事をしていました。 
後ろのガラス戸の向こうは祖父母の部屋。

古くて狭く、何もない家でしたが、安らぎの空間でした。

現在の家屋は、私が高校3年の時に場所を移して建てられました。
間もなく引っ越しという時、祖父母はこの家に残ると言いました。
自分たちが建てた家は大切な宝物。
離れるのが辛かったのでしょう。 
しばらく2人はこの家に住み続けました。

私はというと、すぐに高校卒業を迎え、大学進学を機に
大都会・サッポロでの生活をスタートしたため、
新しい家には3か月程しか住んでいませんでした。

なので、今でも夢に昔の情景が出てくる時は、
必ずこの古い家なんです。

でも、今はもうありません。


この家を建てた祖父は、7年前に90歳で他界しました。
大正10年生まれ。戦争にも行き、まさに昭和のど真ん中を生きた男。
物静かな人で、あまりたくさん話をすることはありませんでしたが、
今になって、祖父の生きてきた「昭和」をたくさん聞いておけばよかった、
と後悔しています。


そんな祖父が、今回の四国ツアー出発前日の夜、夢に出てきました。
生前と変わらない穏やかな顔で座っていました。   
もしかしたら、長くなるこの旅、「気ぃ付けて行って来いよ」
ということだったのかもしれません。

このブログがアップされた頃はフェリーの上です。
間もなく3週間ぶりに北海道へ帰還します。


おじいちゃん、無事に帰って来たよ。
ありがとうね。

ごきげんいかがですか。
司会太郎です。

昭和42 (1967)年生まれ。
今度、50歳になります。
いいじゃないか。

髪が細くなり、白髪が増えました。
いいじゃないか。

独り暮らしです。
もう、うらやましいでしょう。

こんな司会太郎、幼少時からテレビ好きでした。
ブラウン管の画像を一瞥するだけで
どこのテレビ局からの電波であるかを判別できたし、
新聞もテレビ・ラジオ面だけ読んで
何曜日の何時に何の番組が放送されるか記憶していました。
ヒジョーにつまらない子供の自慢ですが。

保育園や幼稚園の類には通っていませんでした。
現在も同様に行きたくても叶わないご家庭があるようですが、
当時は昭和41年が「丙午 (ひのえうま)」の迷信で出生率は低く、
翌年には反動のように子供が多かったのでしょう、
入園できずにはじき出されてしまって、
いっしょに遊ぶ「同僚」が昼間不在で太郎は孤独。
これにより、さらにテレビジョンにのめり込むようになりました。

だから、朝の奥様向けワイドショーからお昼の奥様向け情報番組は無論、
次から次へとアニメやドラマやドキュメンタリーやクイズ番組を
口をぽかんと開けながら洗脳されるように観まくりました。
そんな幼少期が今日の司会太郎を構成しているのです。

ここまでにこのような文章を書いていて、
自分が気持ち悪くなってきました。


さて、その頃には「お茶の間」というものがあった。

折りたたみ式のテーブルを囲んで床に座って食事し、
四つ脚のテレビジョン受像器を全員で凝視して
毛糸のカバーが施された魔法瓶でお湯を注ぎ、
ご飯茶碗を湯飲み代わりにお茶を飲む。茶碗だからね。
もちろん家族の会話が飛び交って。
父親が昭和45年の大阪万博や昭和47年に日本公開された
映画「ゴッドファーザー」を観に行くのを
いってらっしゃいと送り出したことも記憶にある。
それらもお茶の間の出来事。
そう、これが昭和、日本の茶の間なのだ。

いつしか茶の間はカラーテレビになり、父親は自分だけの
14インチ白黒テレビを独占してチャンネル争いは緩和された。
ソファーが導入されて育ち盛りはだんだん茶の間が窮屈になってきて
実家から離れて自炊暮らしをはじめ、アルコールを味わう訓練を重ね、
ススキノの道端に染みつくようになったのだが。


そして現在。
自宅には和室があり、茶の間を自分なりに模している。
和室って、いいですね。
いろんな姿勢でいられて、転がることもできる。
ベッドで寝付くより茶の間でウダウダしていることが多いぐらい。

テレビも和洋問わず昭和ドラマの再放送や映画が
小さな携帯装置で観られる時代ではありますが、
やはり畳の上でテレビジョン様に対峙して鑑賞する、てえのが
いちばん落ち着くのであります。

つまりは、自分にとっての昭和は、
お茶の間でのさまざまな出来事と
当時のテレビで吸収した文化や知識が
今となって振り返ると昭和そのもの、
ということなのだろう。




では、写真を。
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親元を離れ、自炊生活をはじめた高校生の修学旅行。
あこがれの「太陽の塔」が自分にとって凄まじく昭和だった。
写真の本人は、そう見えないかもしれないが感動ちゅー。
いつか公演で関西行ったら、この写真の再現をしようと思う。


そして。
このブログ記事を書いていて思い出したのですが
プライベート映像を用意してみました。
8ミリカメラのフィルムを実家で発見して、
2007年にデジタル化し家族や親戚に配布したものを少々修正したもの。
昭和の香りを存分に感じてもらえるでしょう。
(音楽が出るので再生時はお気をつけください)




父母、姉に弟、祖父祖母に親戚と、なぜか総出演。
撮影地:北海道日高町(旧・門別町)の教員住宅=司会太郎の生家、
同町富川地区の祖父母宅、です。

司会太郎はどこかな。




それでは、ごきげんよう。


 

昭和43年4月25日、小樽市で生まれた、私アリタ。
40年代生まれは、おそらく「昭和」という時代の匂い、空気をまだ
感じられる世代であったと思う。
そんな「昭和」を、49歳を迎える今日、思い出してみる。 

当時の小樽は、「北のウォール街」の異名で栄えた大正から昭和にかけて
の頃に比べると衰えていたと思うが、まだまだ活気のある街だった。
育ったのは、小樽市の繁華街・花園という町。
週末の夜になると、家からすぐ傍の「花園銀座商店街」(現花ぎん通り)は
その道筋、小径に、星の数ほどある、スナックやバー、居酒屋など、
いわゆる<夜のお店>の客待ちをするタクシーで渋滞が続き、
眠らない街といってもいいほどだった。
家の前を通る「潮まつり」の練込みパレードや、露店が並ぶ「水天宮神社祭」
なども今よりダンゼン規模が大きく、ワクワクしたものだ。

家は、利尻島生まれの祖母が、昭和2年に開業した髪結い(美容室)
の2階が住まい。
お店のお客さんは、ご近所さん、毎日髪を結いに来てくれるスナックの
ママさん、芸者の御姐さん(すでに年配ではあったが)、時には北海道
巡業中のお相撲さんなども来てて、とても個性的な人たちが多く、
私や弟はそんな方々に遊んで貰ったり、道でよく声をかけられた。
結婚式も今よりも多くて盛大、母は結婚式の支度で式場を駆け回る。
そんなときは、弟と2人でホテルの支度部屋にご飯を食べに行ったり、
親父が近所の中華屋さんに連れて行ってくれる、楽しみな時間でもあった。

祖母に弟子入りした、母、その妹である叔母も美容師で、
小学校低学年くらいまでは、北海道の各地から、美容学校を出てすぐに
ウチに来て、住込みで働く美容師のお姉さんたちが同居していた。
時には母親代わりに幼稚園や小学校の行事にも来てくれた。
食卓はいつも2つの大きなテーブルを囲み、「昭和の大家族」さながら
の賑やかさ。

そんなお姉さんたちの楽しみのひとつが居間で一緒に見る、
テレビの歌謡ショー。
皆んなお目当ての歌手がいて、沢田研二、郷ひろみ、西城秀樹など
ブラウン管テレビに写し出されると、競ってキャーキャー黄色い声を
あげていた。
朝から遅くまで働き、テレビのエンタメが「憩いの時」となっていた。

ちょうど「核家族」という言葉がよく出てきた時代。
そのころは、友だちのウチのように家族だけの生活というのも羨ましく
も思えたが、いま思うと皆んな「不便」はありながら、いつもイキイキ
としていた生活がそこにあったと思う。

歌旅座の活動を始め、北海道各地を訪れる。
幼少当時は聞き慣れず、遠いところの印象しかなかった、
稚内、八雲、北檜山、妹背牛、静内など、同居していたお姉さん達
の出身地にいくとそんなことを思い出していた。

「昭和の歌コンサート」の幕開け映像にもある、
苦しいときも、哀しいときもあったが、輝いていた頃。
世代、環境で人それぞれの「昭和」感があるものの、あの頃のお姉さん達
のように、会場に来てくれたお客さんには、
ひとときの「昭和の憩いの時」を思い出し、過ごせて貰えたら、
嬉しい限り。

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写真は、まだ私が生まれる前、昭和30年代のアリタ生家とハタチ前後の生前の母。
店は今、弟が継いでいる。
「パーマネント」の看板と「BEAUTY PARLOR」の文字。笑えるが昭和っぽい。
「お客様をキレイに送り出し、また来て貰える喜び」
という祖母や母の言葉をアラフィフにして思い興す、アリタでした。

40年とトツキトウカ前、奇跡が起きた。
ちっちゃいちっちゃいじゅんちゃんの誕生だ。
昭和52年4月24日 浜益村大字群別村字床丹番外地
村中に大きな大きな産声が響き渡ったそうな。
淳子の最初の歌です。
頭皮から垂直に生えたウニのような髪の毛は
『およげ!たいやきくん』のヒットを予測していたのかも
しれません。

写真の中に残る幼い頃の景色。
『北の国から』みたいな ボロボロの家(小屋?)
ブランコ・川からひく生活水・日産ローレル
わかばの煙草…。

まさか その頃 ラジオやテレビで流れていた曲達を
歌うことになるだなんて…。

公演の時に 『意外とお若いんですね』と
よく言われます。
多分 同年代だと思ってらっしゃる。
これはでも 嬉しいことです。
私がとても自然に 昭和の曲達を歌えるのは
やはり 小さい頃から 父さんがギターで
『いちご白書をもう一度』だったり
『さらば恋人』だったり 『メリージェーン』
だったりを歌っていたからだと思う。
そして その曲達が『好きだった』んだと思う。
モノマネするのも好きだった。

私はブルーハーツが好きだった。
理由は 『聞いてるその場で言葉が入ってくるから』。
昭和の歌謡曲も同じく、大体 思いを巡らせられる『ストーリー』
があるものが多い。
ストーリーがなくても 耳に残っている曲があるとしたら
ものすごく アレンジがイカシテるってことだ。

チエがたまに 曲の 歌もコーラスもベースも
ギターもトランペットもドラムも
とにかく気になるところを全部歌う という
本当に自由な歌い方をするんですが
それほどまでに 各パートに 『イカシタ』ポイント
が必ずあることも 昭和の作曲法かもしれません。
いつも時代を読み続ける作詞家・作曲家の方達は
本当にすごいなと思います。

たまに 平たくされた音・
インパクトを作らない・グルーヴがない音楽を聴く。
ひっかかりもしないし、グッともこない。
流れていくのだ。良いも悪いもないのだ。
それが好きだと言う人もいるけれど。がしかしっ!
時にナイフを!時にバラを!時にマグマを!
人を愛そう! 人に嫌われよう!
夢が叶ったら 一緒に酒呑んで 泣こう!
そう、昭和の歌は 人間臭い。最高だ。

我々 歌旅座も 匂いのする人ばかり。
きっと それは この先にも残すべき
昭和の匂いなんじゃないだろうか。

今日は 労働者の酒 ホッピーでも
呑みに行こうか。
ハムカツでもつまみながらね。

JUNCO 40歳。
昭和研究家としては まだまだ勉強不足。
イイものはイイものとして残していきたい。
そして それは 完全なるコピーではなく
どこかに 『時代を読んだ策略』や
『自分達の匂い』も付けてお届けしていきたい。
あぁ 大変っ! 忙しくなりそうです。

本日最後に じゅんちゃんの
お色気 サービスショットを。
もう ビキニは 着れない…。

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(幼馴染の彼女は 3月生まれなので
同じ歳なのに 大分年下に見えます。)

おめでとうを 
ありがとう◎







 

北海道開拓移民を祖父に持つワッチは
道北の雪深い寒村で生まれた。

家業は農家。
おしゃぶり替わりに大根をしゃぶる
生粋の農家娘だ。
しかし自分のルーツをたどると
実は藤原家の末裔らしい。
これを語るにはちと情報が少なすぎるため
いつかの機会にとっておくとしよう。

私の昭和・・・
生れは昭和59年だから昭和の真っ只中を
生きてきたわけではないが
田舎の小さな部落での生活は
かすかにそのにおいが残っていた気がする。
家の前の道路はまだ舗装されておらず砂利道。
雪解けの時期や雨が降った日は道路が
ぐちゃぐちゃで、よく長靴をはかされていた。

近所の家はたったの4件だけ。
よくおやつをもらいに遊びに行っていた。
お彼岸には「おはぎ作りすぎちゃって」
冬至には「おしるこ作ったから(カボチャ入り)」
旅行帰りには「お土産ね」と
なにかといただきものが多かった。
そのお返しに、母に言われてうちの野菜だの
土産だの、作り過ぎた何かを届けに行っていた。

築30年の我が家には、薪ストーブ、レコードプレイヤー
銭湯にありそうなあんま機、緑色の羽の扇風機
ダイヤル式のチャンネルのついたブラウン管テレビ、
ダイヤル電話、緑色の2層式の洗濯機があった。
風呂にシャワーはなく、浴槽のお湯で
石鹸を流した。
炊飯器なんてものはなく、毎朝母が鉄鍋で
米を炊いていた。
今より不便だが、それが当たり前。
懐かしくあったかい風景だ。
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北海道移民の祖父は私が生れる前に遠い所へ行って
しまったためどんな人か知らない。
父が言うには、口数が少なく、寡黙な人だったとか。
そんな父も寡黙な人だ。
朝早くから夜遅くまで休みなく畑で働き続けた。
その様子を見ながら父の傍らでよく遊んでいた。
ちっさな長靴をはいて畑を走り回り
父の運転するトラクターに乗せてもらい
それに飽きると一つ年上の兄と辺りの草むらを
探検し、小さな小川を飛び越え・・・
外での遊びは尽きない。
私の足腰が誰よりもたくましく育ったのは
このおかげだろう。
(最近の子供の細長く折れそうな足を見ると
心配になってしまう。)
人懐っこい(馴れ馴れしく図々しい)性格は
近所のおじさんおばさんに可愛がってもらったからに
ちがいない。ありがたや。
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私の昭和はほんの一瞬に過ぎないが
思い出すと心がほっこりするもんだ。

いま全国各地で開催している「昭和の歌コンサート」
昭和を生きてきた大先輩たちが「良かった!!」と大喜びで
帰っていくとき、ほっこりなんて言葉じゃ足りないくらいの 
色の濃~い いろんな記憶が蘇っているんだろうな。

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