チープ広石は器用な男だった。
作詞・作曲・編曲・演奏・歌唱をこなし、
才能あるミュージシャンとユニットを組んで作品を発表したり、
自身名義のソロアルバムをリリースしてきた。
若い世代の育成にも余念がない。
一方で、ラジオのパーソナリティーとしても定評を得ていた。
どの活動も、あの「聖夜の渋公」以降のものである。


2007年、彼のラジオ番組に、ある女性シンガーがゲスト出演した。
彼女は笑顔なのだが、かすれ気味の小さな声でチープに反応していた。
しかし、時間が進むにつれて彼女はよく笑い、よく喋り、より声が大きくなり、
番組の終盤になるとスタジオ内は和やかな空間に変わっていた。

マイクロフォンの電源が切れた後、チープは彼女との再会を誓って別れたのだが、
この年の暮れにその約束はあっさりと果たされることとなった。
チープ広石のクリマスライブにおいて。

夕方に開演したステージも深い夜に陥った頃、かろうじて意識を保った酔客の前で、
やはり酔いどれと化したチープと女性シンガーの共演がはじまった。
彼女は嗚咽に逆らいながら歌った。チープは彼女の隣りにいた——楽しそうに。
1988年から19年後、2007年の聖夜のこと。



2008年に入ると、チープは活動をさらに加速させた。
映画『セイム・オールド・ストーリー~20年目の訪問者』の公開とそれに伴うステージ。
彼の盟友で作曲家の林哲司氏吉田朋代氏からなる音楽ユニット・
グルニオンのメンバーとしての活動。
東京の自宅と北海道との往復も増えた。

夏から秋にかけて、林哲司氏の活動35周年を記念したCD作品を彼が手掛けることに。
林氏が世に送り出した4つの名曲を、4人の女性シンガーにカバーさせるという企画。
チープが選び出した4人の女性が集まった。そのなかには、あの彼女もいた。
聖夜に嗚咽を我慢して歌いきった女——名前はJUNCOという。
チープが彼女に与えた楽曲は「悲しい色やね」
彼の要望に、彼女は歌で応えることができた。



2009年が明けて、2人はスタジオに籠もっていた。CDアルバムを制作するために。
双方のオリジナル曲やカバー曲を持ち寄り、議論し、編曲し、歌い、演奏して、録音した。
窓のないスタジオから休憩のために外へ出ると、
空は夕焼けではなく日の出を迎えていたこともあった。
アルコール飲料で喉と心を癒やして明日の課題を居酒屋で語らった。
彼が東京へ戻ると、残された彼女はひとりで新曲をせっせとつくった。 



2009年2月末。2人は北海道夕張市の特設ステージにいた。
ゆうばり国際ファンタスティック映画祭に『セイム・オールド・ストーリー』を
上映する機会を得たため、初めて2人が正式なデビューの場として選ばれたのが、
財政再建団体に指定されたこの地。

ユニット名は、JUNCO & CHEEP
シンプルで古めかしいネーミングではあるが、
「覚えやすくて郷愁感を誘う名を」という考えのもと、
2人であえて狙ったものだ。

さらに、もうひとつ、2人には成し遂げたいことがあった。
北海道経済を支えていた都市銀行の破綻、リーマンショック。
少子高齢化や景気低迷が他都府県より激しいとされる北海道、
当時180を数えたすべての市町村に音楽を手渡ししていこう、
音楽を届けて元気と感動を分け合おう、5年でも10年かかっても、と。
彼女の提案に、彼は乗った。

ついに、はじまった。
 
ここ夕張で、 JUNCO & CHEEP『北海道180市町村公演ツアー』の幕は、
2人が演奏する第1曲目、呼吸を合わせるカウントコールとともに切って下ろされた。

そして、4月にリリースされた2人のアルバムは、
『悲しいことは数あれど』と名付けられた。 

悲しいことは数あれど



お気づきのように、この回で「渋公」は出てこない。 
この時点では、各地のホールだって演奏できる確約はまったくない。
仮定の話題や思いつきだとしても、渋公にまで思いが到ることはあり得なかったのだ。

しかし、旅ははじまったばかり。
2人を中心としてあらゆる物事が動こうとしていた。
止めることはできない。
夕張の4日間連続公演は、それぞれの希望を輝かせるのに十分な舞台だったのだ。



ただし、誰にも気づかれずに、あまりにも静かに、
ゆっくりと回転をはじめていたものもあった。

本人でさえも知らない何かが。
 

(つづく)