150910-JUNCO渋公公演


2015年5月19日

湿気を感じるものの、涼しい風が吹きぬける夕方の東京・赤坂

この夜から3日間にわたって、JUNCOがステージに立つ。

演目は『クライマーズSHOW・東京物語』

この時の一座のメンバーは、スタッフ合わせて5名という少人数。


多くの尽力のおかげで、すでに3夜ともソールドアウト。

会場となった「赤坂ふらっとん」は、北海道からの一座と

都内外からの観客を迎えて連日賑わいを見せた。




第2夜のこと。

ある2人のゲストが着座した。ここでは、O氏M氏と呼ぶ。

ステージが終わると、両氏は歌旅座のBOSSを連れ立って会場をあとにし、

近所の中華料理店「香港楼」に入った。


O氏、M氏との久しぶりの再会に、BOSSはあらためて感慨を深めていた。

35年前、BOSSが社会に出てまもない頃に両氏から舞台技術者としての薫陶を受け、

社会人のイロハまでも授けてくれた、今や大御所の大先輩2人が目の前にいるのだから。

同時に彼らは、渋公で公演される演目を決定できる立場にあり、

他にも国立劇場、東京国際フォーラムなどの名だたる劇場の運営を

取り仕切る会社の社長常務でもあった。

この2人をたとえるなら、長嶋茂雄と王貞治、市川雷蔵と勝新太郎、

1971年頃のニクソンとキッシンジャー。いずれも畏れ多い。


大御所2人は先のステージも楽しんでくれたようで、

穏やかに料理と酒を味わっていた。


O氏とM氏のどちらだったろう、不意に、目の前にいる後輩に云った。

先輩「渋谷公会堂、今年で終わりでね」

後輩「え、それは?」

先輩「渋谷区が取り壊して建て替えるんだよ。10月4日でクローズして」

後輩「いいホールだったのに……残念ですね」

先輩「どう、歌旅座で渋谷公会堂、やってみない?

BOSSは一瞬息を呑んだ。そして、

「……2、3日考える時間ください」



無理もない。

北海道や九州ならまだしも、首都圏ではまったく知名度がない北海道歌旅座

たしかに2010年には杉並区のホール、座・高円寺で公演したことはあるも、

およそ300の席数で5年も前のこと、2000人収容の渋公で公演するには無謀に過ぎる。

考える時間がどうしても必要なのである。

ほどなく、楽しくてスリリングな宴は、お開きとなった。




北海道に戻って、歌旅座メンバーは渋公公演について吟味した。

単純な見栄だけで飛びついては、やはりリスクが高すぎる。

しかし、メンバー全員、一丸で当たれば成功する可能性はある。

この悩ましい命題は最終的に、歌旅座後援会の吉田聰会長の言葉で決した。

「渋公の最後にさ、こういう機会もらったんだから。

 これも意味があるんだ。死ぬ気で協力するから、やるべや」



5月下旬。

後輩であるBOSSから大先輩2人にその意志を伝えることで、

幕は切って落とされた。

6月10日には東京で双方の関係者が出席する会合が設けられ、

様々な事柄を話し合った。

そして、公演日は9月10日と決まった——3ヶ月後



首都圏では誰も知らない歌旅座の周知と集客を目的として、

司会太郎アリタシューヤが毎月東京へ飛んで活動を本格化させた。

梅雨、酷暑、残暑、残酷暑。都内、近県、人から人へ。

後援会員に紹介いただいたり、知人友人、各種企業と団体に音楽家たち、

人々が集う居酒屋の主人たちにも歌旅座の歩みと公演情報を伝えていった。

北海道に縁のある団体と出会い、協賛してくれる企業も少しずつ増えていった。

また、渋公がなくなるという事実は、多くの人にとって驚きだったようだ。





9月10日・早朝

前日に東京入りしていた歌旅座メンバーは土砂降りの雨を呪っていたが、

この大切な日の朝も雨は止んでいなかった。

天気予報では昼頃から雨は上がることになっていたが、

不安にさせるには十分すぎる空模様だった。



7時過ぎに会場入りしたメンバーは機材を搬入し、舞台を構築していった。

渋公のスタッフによる機能的かつ効率的なサポートにより、

配置、音響、照明などの設定は着々と進んだ。



元起 “ゲンキ” 丈晴が率いる映像撮影クルーも現場に到着した。

事前の打ち合わせに応じて、整然とカメラを含む機材を設置していった。



樋口一枝は、いつものように気配を感じさせずに現れた。

久しぶりの渋公楽屋内を一瞥すると、メイク道具を鏡の前に広げていた。



飯塚達央は飄々と登場、関西弁が残る柔らかい口調で周囲に語りかけていた。

写真家として、この日を記録してもらうつもりだ。

 

元・歌旅座メンバーで、現在は東京の会社に勤務するピヨも駆けつけてくれた。

メンバーと再会するたびに「キャーッ」と叫び、渋公内部が少し明るくなった。



札幌から作詞家の北埜うさぎを含む3名と、

おもにマスコミや業界関係者を中心に集客してくれた

東京在住のオカモッチ氏がそれぞれの部署に就いた。



14:00、開場

そして、15:00に開演


たしかに、雨は客足に影響を与えた。

テレビでは特別態勢で洪水被害を報道していた。

音楽を楽しむどころではなかった人もいたことだろう。


そんな状況でも、大勢の方々が渋公に足を運んでくれた。

都内や近隣県から正体不明の一座のために、

そして、北海道からは200名を超える人々が。

いっしょに歌い、手拍子してくれた人々がそこにいてくれた。
 

ステージでは、チープ広石に捧げるコーナーを設けた。

1988年のLOOKラストコンサート、

2007年のC.C.Lemonホール訪問。


2009年JUNCO & CHEEPのツアーを開始して、

グループ名を北海道歌旅座と名乗るようになった頃から、

彼はこのようによく話していたものだ。

「いつか、歌旅座として渋公のステージに立てたら本望だよな」


2014年3月。チープ広石は、他界した。

しかし、生前の彼を知っている者なら、

この日を彼がどんなに喜んでいるかは容易に想像できるはず。


JUNCOをはじめとする歌旅座メンバーは多少の緊張と、

大勢のお客様からの反応、そしてチープ広石の存在を感じながら、

幸福に包まれてステージをやり遂げたのだった。
 






それは、2015年9月10日に終わりを迎え、はじまろうとしていた。

次の街で、新たなステージが北海道歌旅座を待っている。

そのために、旅の準備を整えなければならない。




3日前、ある映像が送られてきた。

タイ王国南部のアンダマン海と、名もない孤島、

そしてBOSSの姿が確認できる。

この映像が何を語っているのかは、わからない。

でも、新たな旅を予感させる手がかりになるかもしれない。



さあ、海に出ようか。







(おわり...でも、歌の旅はつづく