昭和43年4月25日、小樽市で生まれた、私アリタ。
40年代生まれは、おそらく「昭和」という時代の匂い、空気をまだ
感じられる世代であったと思う。
そんな「昭和」を、49歳を迎える今日、思い出してみる。 

当時の小樽は、「北のウォール街」の異名で栄えた大正から昭和にかけて
の頃に比べると衰えていたと思うが、まだまだ活気のある街だった。
育ったのは、小樽市の繁華街・花園という町。
週末の夜になると、家からすぐ傍の「花園銀座商店街」(現花ぎん通り)は
その道筋、小径に、星の数ほどある、スナックやバー、居酒屋など、
いわゆる<夜のお店>の客待ちをするタクシーで渋滞が続き、
眠らない街といってもいいほどだった。
家の前を通る「潮まつり」の練込みパレードや、露店が並ぶ「水天宮神社祭」
なども今よりダンゼン規模が大きく、ワクワクしたものだ。

家は、利尻島生まれの祖母が、昭和2年に開業した髪結い(美容室)
の2階が住まい。
お店のお客さんは、ご近所さん、毎日髪を結いに来てくれるスナックの
ママさん、芸者の御姐さん(すでに年配ではあったが)、時には北海道
巡業中のお相撲さんなども来てて、とても個性的な人たちが多く、
私や弟はそんな方々に遊んで貰ったり、道でよく声をかけられた。
結婚式も今よりも多くて盛大、母は結婚式の支度で式場を駆け回る。
そんなときは、弟と2人でホテルの支度部屋にご飯を食べに行ったり、
親父が近所の中華屋さんに連れて行ってくれる、楽しみな時間でもあった。

祖母に弟子入りした、母、その妹である叔母も美容師で、
小学校低学年くらいまでは、北海道の各地から、美容学校を出てすぐに
ウチに来て、住込みで働く美容師のお姉さんたちが同居していた。
時には母親代わりに幼稚園や小学校の行事にも来てくれた。
食卓はいつも2つの大きなテーブルを囲み、「昭和の大家族」さながら
の賑やかさ。

そんなお姉さんたちの楽しみのひとつが居間で一緒に見る、
テレビの歌謡ショー。
皆んなお目当ての歌手がいて、沢田研二、郷ひろみ、西城秀樹など
ブラウン管テレビに写し出されると、競ってキャーキャー黄色い声を
あげていた。
朝から遅くまで働き、テレビのエンタメが「憩いの時」となっていた。

ちょうど「核家族」という言葉がよく出てきた時代。
そのころは、友だちのウチのように家族だけの生活というのも羨ましく
も思えたが、いま思うと皆んな「不便」はありながら、いつもイキイキ
としていた生活がそこにあったと思う。

歌旅座の活動を始め、北海道各地を訪れる。
幼少当時は聞き慣れず、遠いところの印象しかなかった、
稚内、八雲、北檜山、妹背牛、静内など、同居していたお姉さん達
の出身地にいくとそんなことを思い出していた。

「昭和の歌コンサート」の幕開け映像にもある、
苦しいときも、哀しいときもあったが、輝いていた頃。
世代、環境で人それぞれの「昭和」感があるものの、あの頃のお姉さん達
のように、会場に来てくれたお客さんには、
ひとときの「昭和の憩いの時」を思い出し、過ごせて貰えたら、
嬉しい限り。

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写真は、まだ私が生まれる前、昭和30年代のアリタ生家とハタチ前後の生前の母。
店は今、弟が継いでいる。
「パーマネント」の看板と「BEAUTY PARLOR」の文字。笑えるが昭和っぽい。
「お客様をキレイに送り出し、また来て貰える喜び」
という祖母や母の言葉をアラフィフにして思い興す、アリタでした。