~これは、歌旅座の吉田聰後援会長が、毎年書いている
 某冊子のある年の文章です。
 2017年の締めくくりに、是非皆さんにも読んでいただきたく
 掲載してみようと思います~

 

『北海道歌旅座全道179市町村ライブツアー』を追っかけて、三月で八年目を

迎えた。昨年十二月現在で、道内・道外合わせて約七百公演を終え、私の走行距離も

十万キロを超えた。この間、数多くの貴重な出会いと共に、悲しい別れの場面にも

直面しなければならなかった。

 

― 盟友 「チープ広石」との別れ -

彼は、このチームを旗揚げした時の重要な仕掛け人でもある。

作詞・作曲・編曲をこなし、そしてステージではサックスやギターを片手に

圧倒的な存在感を見せていた。

活動を開始して間もなく「腎臓ガン」が見つかり摘出したものの、転移していたことも

あり、余命一年半の宣告を受けながらも、それに挑戦するかの如く、死と隣り合わせの

ステージを展開していた。入退院を繰り返し、投薬を続けながらの活動だったが

十四年三月九日ついに帰らぬ人となった。五十三歳。

麻雀好きの彼だったが、命日が「ザンク・サンキュウ」とは…。


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― 「小太郎先生」との別れ -

余市町に、「中村小太郎」という七十七歳のお年寄りが住んでいた。

あの「岡本太郎」の唯一の弟子で、あのヒデ・ロザの大ヒット曲『愛の奇跡』の

作詞者でもある。

歌旅座の活動に感銘を受けて、以後、毎月のように歌詞を届けてくれる程の、

強い関係が生まれていた。最初に発表した『夢は逃げない』をはじめ、彼から届く歌詞

はどれもが、人生を前向きに生き抜く応援歌そのものだった。

しかし十五年四月、自宅で突然倒れ、そのまま逝ってしまった。

七十歳を過ぎても気持ちは常に若く、「僕はね、夢を決してあきらめないんだ」と

いつも熱く語りかけてくれた彼の姿が忘れられない…。

かけがえのない盟友を、次々と失った衝撃は、このチームにとってはかなり大きな

ものだったに違いない。しかし彼らは、この悲しみ・悔しさをエネルギーに変えて

乗り越えるべく、より精力的な活動を展開したのは見事だった。

 

―東京 『渋谷公会堂』公演―

五月のある公演会場での事だった。

「渋谷公会堂から公演依頼がきててさ…」歌旅座の社長が突然耳元でつぶやいた。

「エッ、あの東京ですか…」

『渋公』がこの十月に五十年の歴史に幕を閉じるにあたって、最後の自主文化事業を

歌旅座に託したいというのだという。しかしその為には、クリアしなければならない問題、

すなわち首都圏ではまだまだ知名度の低い歌旅座が、二千席を超える客席を
どこまで埋めることが出来るかが問題なのだという。

「社長、やりましょう。北海道のパワー見せつけましょうよっ!」

そして迎えた公演当日。
関東地方の大雨被害で会場にたどり着けなかった人もかなりいたようだが、
何とか七~八割がたの観客を得て、成功裏に終えることができた。

有難いことにノリご夫婦の姿も見える。四十年ぶりに会う、流山での教え子達も
数多く駆けつけてくれていた。
残り三カ月あまりの短期間勝負の中で、スタッフも後援会も総動員で宣伝に回ったが、
その中でも力強かったのは「北海道ふるさと会」の全面的な協力を頂いたことだった。
北海道を離れてもふるさとを応援するその思いに、只々頭の下がる思いで一杯だった。感謝!

まだまだ、バカ親の旅は続く…。

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歌旅座はこれからも大切な人々の想いも胸に抱え、力強く走ってまいります。
2017年も、全道・全国各地から 熱い応援を送っていただき
本当にありがとうございました。
皆様、良いお年をっ!
そして、2018年のステージも どうぞお楽しみにっ!