前回のアリーのバンコク通信ブログ、第1章「エイジアンブルーの誕生」につづき、
お届け致します。


第2章「BARエイジアンブルー&エイジアンブルーTOKYO オープン」

コンセプト通りアジアのリラクゼーション空間は出来上がった。
しかし大切なのはもちろん中身である。
エイジアンブルーのロゴはアジアの洗練と混沌を渦巻きで表現したもの。。
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*当時愛用していた懐かしいマッチ。
店内で流れるBGM。
音楽は日本も含めた東アジア、東南アジア、中央アジアの楽曲を厳選。
これは中国、タイ、ベトナム、チベットとサンプリング音源の旅をしていた
我々ならではの作業。ライブラリーも揃っている。
JBL社製スピーカー〈ハークネス〉から流れる上質な音によりエスニック感漂う
店のオーラを纏った。
そして店舗のスタッフ。
必要なのは、知識とサービス精神のあるバーテンダー。
これだけこだわったバーカウンターが出来たのだから、提供するドリンクも
本格的でなければならない。
ちょうどこの頃、ツテがあるバーテンダーが小樽のホテル・バーにいるという情報が。
前年のバーテンダー・コンテストで日本一に輝いた凄腕らしい。
20代の女性だ。声を掛けない手はない。
面接の日、小柄で華奢ながらナナハンのバイクに股がってやって来たカッチョいいS嬢
2か月後、彼女はオリジナルカクテルをひっさげエイジアンブルーのカウンターに立っていた。これからは彼女が店長となりオープンまで一挙に動き出す。
そして設計時からABチームにいた飲食店は未経験だったスタッフも加わり、
S嬢の厳しい指導でプロになっていった。

『食』の方は、ご存知、北埜うさぎがメニューをプロデュース。
試食を重ね、12種類のお料理からなるコース料理
単衣御膳(ひとえごぜん)~十二の味わい』を完成させた。
このときのうさぎメニュー「コンソメゼリー寄せ」やパイナップル風味の
洋風きんとん」は今でもマルノクライブでも提供されることも。
オープン前。
「1ヶ月は取引先と社員の家族を招待しよう」
プレオープンは売上無しのBOSSの心意気。
同時にこれがスタッフのトレーニングにもなった。
北海道の各地から社員の親御さんたちも連日来店。
オープン前の、最期の招待客はこの店を施工した大工さんと設備屋さんたち。
大いに盛り上がったのを覚えている。

ここからBAR・エイジアンブルーは黄金期を迎える。
空間、スタッフ、飲食、を含めて店丸々買取りたいという人が現れたり、
支店を某有名ホテル内にオープンさせないか、というデベロッパーから声も掛けられる
ようにもなった。
試行錯誤しながら、一時はランチ・ディナータイムを設け、<本格中華>なども提供した。
スタッフは入れ替わり、歌旅座メンバーだったPIYOも店長になる。
こだわりのフード・ドリンクはもちろんだが、店の主役はスタッフの女性たちだ。
ユニフォームは、ある時はベトナムにオーダーメイドしたアオザイ、
ある時はシンガポール航空のCAと同じもの。
まるで「エイジアンブルー」という大きな水槽の中を優雅に泳ぐ熱帯魚たちのようであった。
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クラブのような接客をすることは決してないが、
上質なおもてなしのサービスを提供する彼女ら。
オリジナルカクテル『エイジアンブルー』も誕生し、
界隈のハイソな男性客で賑わったのである。

この頃、東京にオフィスがあったDF社。
それじゃ東京にも自分たちで作っちゃおうじゃないかと、再びタイへ飛び資材を購入。
それで出来ちゃったのが、東京・三宿『BARエイジアンブルー・TOKYO』。
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どこから見ても「隠れ家」的な此処、業界のお忍びなどでも使われるアジトのようなバーが完成した。
実は「エイジアンブルー」を作り上げて来れた基本は、80年代、西麻布の伝説のバー経営に携わっていたこともあるBOSSの経験が根底にある。お酒の知識も豊富。
しかしそれだけではなく、「空間」「フード」「ドリンク」「サービス」それぞれ新たにチャレンジ精神を盛り込んだ集大成が「BARエイジアンブルー」であったと思う。

ここで作りあげてきたものが、現在の<円山夜想>、そして<北海道歌旅座>にも
脈々と繋がっていることに疑う余地はない。
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