ブランドのロゴが入ったきらびやかなバックよりも、革で物持ちが良く
長く使えば使うほど味の出てくるものの方が好きだ。
二十歳くらいの頃だったか、母にねだって譲ってもらったボストンバック。
今でも大事に使っている。
この歌旅を始めた当初は、まだ何週間も続くような旅はなかったから
よくこのバックを使っていた。
BOSSは初めてこのバックをみた時、一目で気に入ったらしい。
「いい味出してるねぇ。あぁ上野駅ってかんじだね」
以来、「あぁ」という愛称でメンバーからも愛されている。
「おい ちえ!”あぁ”持ったか?」「今日も”あぁ””いいねぇ~」てな具合で。
それがきっかけで「あぁ上野駅」という曲を知ることになった。
高度経済成長期、地方の中学を卒業したばかりの少年少女たちは大都市の
企業や店舗に集団で就職した。
昭和30年代には15歳から24歳までの東京都の人口が一挙に100万人近く
も急増するほどの人口大移動が起きたそうだ。
そのほとんどは子弟の多い一家の家計を支えるためだったり、進学するほどの
経済的余裕がなかったりとやむを得ない理由だ。
多くの集団就職列車の終着駅は上野駅だった。
当時、そこには地方から集まった就職者と出迎えの人などで人が
溢れかえっていたという。
現代の上野駅には「あぁ上野駅」の歌碑があり、その時代を知る多くの人々が
当時の思い出や故郷を偲びにやって来るそうだ。
まさに歌詞にもある通りの”心の駅”である。
幼い頃から父と母の卒業アルバムをよく見ていたのだが、いつも思っていた。
顔が大人っぽい。自分が中学に入った時の姿と、両親のアルバムに載っている
同世代の人たちの目つきがまるで違った。
それはきっと背負うものが違ったのだろう。
自分のケツはは自分で拭かねばならぬという一種の覚悟を
無意識に感じながら生きていたのかな、と大人になって感じた。
正直、私なんてあまっちょろく生きてきたから、目つき あまあまです。
当時の発言集。
「お母さん、今日の晩ご飯なにぃ~?えぇ~ ‼ 肉が良い~ ‼カレーが良い~ ‼ 」
「えぇ?芋ほりすんの?やだ。疲れる。」
「どっか連れってって。」
ほらね。ナメてます。
便利なもの、与えてもらうことが当たり前の価値観。
すべての物事にははじまりがあり、創り上げられてきたものなのだということを
感じることに随分時間がかかってしまったな。
母は15歳という若さで親元を離れ、愛知に集団就職した。
この写真は少年だが、こんな感じで母も”あぁ”を片手に、一人知らない
土地を歩いていたのだと思うと、尊敬の念が込みあがる。
YouTubeでこの曲を調べると再生回数が400万回を超えるものがあった。
「昭和35年の春、私たちの乗る集団就職列車が上野駅に到着したのは
まだ星がうっすらと見える明け方でした」
森光子さんの朗読から始まる。
コメント欄には曲を聴いた人たち各々のエピソードや想いがしたためられていた。
長く使えば使うほど味の出てくるものの方が好きだ。
二十歳くらいの頃だったか、母にねだって譲ってもらったボストンバック。
今でも大事に使っている。
この歌旅を始めた当初は、まだ何週間も続くような旅はなかったから
よくこのバックを使っていた。
BOSSは初めてこのバックをみた時、一目で気に入ったらしい。
「いい味出してるねぇ。あぁ上野駅ってかんじだね」
以来、「あぁ」という愛称でメンバーからも愛されている。
「おい ちえ!”あぁ”持ったか?」「今日も”あぁ””いいねぇ~」てな具合で。
それがきっかけで「あぁ上野駅」という曲を知ることになった。
高度経済成長期、地方の中学を卒業したばかりの少年少女たちは大都市の
企業や店舗に集団で就職した。
昭和30年代には15歳から24歳までの東京都の人口が一挙に100万人近く
も急増するほどの人口大移動が起きたそうだ。
そのほとんどは子弟の多い一家の家計を支えるためだったり、進学するほどの
経済的余裕がなかったりとやむを得ない理由だ。
多くの集団就職列車の終着駅は上野駅だった。
当時、そこには地方から集まった就職者と出迎えの人などで人が
溢れかえっていたという。
現代の上野駅には「あぁ上野駅」の歌碑があり、その時代を知る多くの人々が
当時の思い出や故郷を偲びにやって来るそうだ。
まさに歌詞にもある通りの”心の駅”である。
幼い頃から父と母の卒業アルバムをよく見ていたのだが、いつも思っていた。
顔が大人っぽい。自分が中学に入った時の姿と、両親のアルバムに載っている
同世代の人たちの目つきがまるで違った。
それはきっと背負うものが違ったのだろう。
自分のケツはは自分で拭かねばならぬという一種の覚悟を
無意識に感じながら生きていたのかな、と大人になって感じた。
正直、私なんてあまっちょろく生きてきたから、目つき あまあまです。
当時の発言集。
「えぇ?芋ほりすんの?やだ。疲れる。」
「どっか連れってって。」
ほらね。ナメてます。
便利なもの、与えてもらうことが当たり前の価値観。
すべての物事にははじまりがあり、創り上げられてきたものなのだということを
感じることに随分時間がかかってしまったな。
母は15歳という若さで親元を離れ、愛知に集団就職した。
この写真は少年だが、こんな感じで母も”あぁ”を片手に、一人知らない
土地を歩いていたのだと思うと、尊敬の念が込みあがる。
「昭和35年の春、私たちの乗る集団就職列車が上野駅に到着したのは
まだ星がうっすらと見える明け方でした」
森光子さんの朗読から始まる。
コメント欄には曲を聴いた人たち各々のエピソードや想いがしたためられていた。