うたたび ザ・コネクション


カテゴリ : 物語

『北海道・失われる鉄路への鎮魂歌』シリーズ第2弾が完成しました。
写真家 飯塚達央氏からの寄稿文です。

*  *  *

【さよなら根室本線】飯塚達央
2024年3月末に北海道の鉄路がまた一つ消えようとしています。
根室本線の富良野ー新得間は芦別岳を背景に、
空知川に沿うように走りトンネルを抜け、
かなやま湖畔を縫って進む風光明媚な路線です。
そこに国鉄時代のディーゼルカーがのんびりと進んで行きます。
青いモケット地の柔らかいシートに腰を下ろし、
エンジンの鼓動を感じながらの小さな旅も間も無く終焉です。

いやあ〜寂しいですね。大阪の鉄道少年だったぼくは、
北海道のまるで血管のように張り巡らされた鉄道の路線図に目を奪われ、
時刻表をたぐっては、いつか全線走破したいと憧れを抱いていたのでした。
まさに国鉄王国だったのですから、かつての北海道は。

1996年に北海道に移住して以来、ふるさと銀河線、江差線、
留萌本線(増毛—留萌、留萌—石狩沼田)、札沼線、夕張線と
立て続けに見送って今回さらに根室本線(富良野—新得)です。
かつて札幌と道東を結ぶ重要な幹線だったので、
根室本線の廃止にはなお一層の哀愁を感じます。

そんな思いで撮ってきた写真を鉄チャン同志の
下谷淳蔵さんが作ってくれた音楽とともにご覧ください。
高杉奈梨子のバイオリンも華を添えてくれています。
5分間ほどの短い旅ですが、根室本線の富良野—新得間のラストラン、
目と耳でご堪能ください。
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皆様、北埜うさぎでおま。

歌旅座ライヴ会場で物販の目玉として
ご好評いただいている円山厨房特製カレー。 
おこがましい話ですが、このカレーの土台となったのは、
不肖ながら私の「うさぎカレー」でございます。 
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昔々、このカレーを舌も腹も肥えたスタッフにふるまったところ
たいそう気に入られて、 レストラン円山厨房というお店の定番メニューに、 
さらには、レトルトパッケージとして商品化されるという流れがありました。

ここに至るまで、レトルトという形態のために多くのプロの手が入り、 
以前のような家庭でふるまった調理方法とは似て非なるものではあります。
でも、これまでに紡ぎ出してきた楽曲の歌詞たちのように、
たくさんの方々に愛されているのは、何ともこそばゆく嬉しいのでございます。

とは言え、私自身、カレーはさほど好物でもなく、
外食の折にも自ら注文するのは皆無という品。

ただ、そんな私にも「どうじても食べたい!!」と願った
憧れのカレーライスがありました。
多少の脱線をお許し願えれば、そんなカレーの思い出話をひとつ......。





20歳代半ば......。
ひたすら仕事に突っ走っていた頃。
内臓を患い、病院に向かった。
医師に説得され、仕事は休みたくなかったけれど、
当面の業務を片づけてしぶしぶ入院することになった。 

過労とストレス、そしてお酒。 
今は人並み程度だと思うが、当時はたしかに周囲から「ざる」と指摘されるのも
あながち嘘とも言い切れないほど、イケる口であった。
遅れて宴に加わった男性社員が次々とつぶれても平気で呑みつづけ、
「よく呑めますねえ〜」と店員から呆れた口調で言われたこともたびたびあった......。


そんなこんなで、夏・真っ盛りの入院生活。
8人部屋で周りはほぼ年配者ばかり。
治療は日々の回診、点滴、安静臥床、そして食事療法。
仕事柄、見舞客が多く、狭い病室では迷惑をかけるので
その都度、院内をウロついていたら看護師に叱られてばかりいた。
そう言われても寝てばかりでは退屈するので、 
同室唯一の20歳の女の子を誘って
みんなが寝静まった頃に外来のロビーに降りて、
車椅子を爆走させて遊んだりしていた(ほんま、スミマセン...)。 

その罰が当たったのか、数日後、ベッドから起き上がるときに
ひどいギックリ腰をやらかし、あわせてヒドいモノモライもできてしまった。
ある日には、眼帯をして歩行器につかまり、ヨタヨタ歩いていたら 
お見舞い客に「オマエ、いったい何の病気で入院してんだッ???」って。
......ほんまですなぁ、トホホ。



いろんな検査も済んで、回診と点滴が終われば、
ある程度は自由が利くようになった頃、短時間の外出が許されて
近くのショッピングセンターに出かけてみた。

真夏。解放感に背中を押され、こっそりと食べたのがアイスクリームぜんざい。 
大いに満足して病室に戻った夕方、 ひどくカラダが痛みだし、
またまた注射と点滴、増量。
そして、そのまま投獄——ではなく、食事指導の面談室へ。

徹底した食事療法とは、脂肪ダメ、刺激物ダメ、アルコールダメ。
熱〜いモノ、冷た〜いモノもダメダメ。好きなモノ、全〜部ダメッ!!
延々と説教、もとい、延々と指導がつづく。
「いいですか。極端な話、美味しそう〜って思うだけで臓器が働き出すんですよッ」
との言葉に黙って頷けばいいものを、
「じゃあ、不味そ〜、美味しくなさそ〜、って思って食べたらいいんですか?」。
その後、説教タイムはさらに延長され、毎日の監視の目が厳しくなったのは、
ここに書き記すまでもない。



今でこそ、病院食はかなり改善され、工夫を加えて美味しくなっているが、
当時は本当に「トホホ食」だった。
目の前に出されるのは、パサパサになった薄〜い味付けのタラ、ささみ肉。
サラダだってドレッシングではなく、薄〜い酢。甘酢ではなく、ただの「酢」。

食事は常人食も特別食もいっしょに配膳されるため、
同室の患者さんのグラタンやら、唐揚げやら、生姜焼きが
うらやましくてならなかった。
なかでも、いちばん酷なメニューがカレーライス
廊下から病室まで漂うカレーの香りに包まれながら、
味気のないタラの身をぼそぼそと噛みしめる侘びしさの極みよ。
斜め向かいのおばあちゃんを羽交い締めにして、
カレー皿を奪いたい衝動を抑えるのにどれほどエネルギーを消耗したことか......。
しまいには、カレー風呂に溺れる夢まで見たほど。
ごくごく普通の、いや、普通以下でさえ、
大枚をはたいてでも食べたい憧れのカレーになっていた。

後にも先にも、ただひたすらにこれが欲しいと熱意を抱いたのは
この病院カレーだけかもしれない。

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数値も落ち着き、「あとは通院投薬で」と退院許可が出たのは嬉しかったが、
退院してしまえば、あのカレーを口にすることができない
そんな卑しん坊の無念さだけが残っていた。

長引く通院生活のある日、親しくなった検査室の女の子が、
私のためにその日の献立だった職員用のカレーを1皿、取っておいてくれた。
「そんなに美味しくないよ」
女の子が笑いながら手渡してくれたお皿の重みを今でも覚えている。

ひとくち。
うん、おいしくない。
辛味もコクもないありきたりのカレーライス。
おいしくないよ、うん。
だけど、美味しい!!

ひとくち食べるごとに、病室で聞いた盆踊りの賑わいや、
優しかった同室のおばあちゃん(羽交い締めしそうになってゴメンネ)、
回診のたびに「お酒、飲んでませんか?(入院中だっちゅうの!)」と
訊いてきた主治医先生の顔が浮かんできては、カレーといっしょに呑み込んだ。

この舌が憧れを現実へと戻してくれたけど、
「焦がれた思い」というものはそれほど悪くもなく、
不自由な入院生活の彩りとして◯◯年経った今でもこうして残っている。




きっと、誰にでもそんな、ちょっと苦笑いしてしまうような
思い出の味ってあるんじゃないかな。
語るほどもない思い出の味話。

ここまでお付き合い、ありがとうさんでした。



さあ、今日は久しぶりにうさぎカレーでも作りましょ。
皆様、どうぞ「円山厨房特製カレー」を今後ともご贔屓に......。

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イラスト=ジュンコ・ガブリエル画伯


 
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9月29日
30日の夜、札幌の円山夜想(マルヤマノクターン)

北海道歌旅座「ありがとう渋谷公会堂・後夜祭」のために、

各地からゲストたちがこの小さなライブハウスに駆けつけてくれました。

あの日そこににいた人たち、行けなかった人たち、

近隣の街から、十勝、釧路、関東から。 


 
北埜うさぎの登場とともに会は幕を開け、

JUNCO
高杉奈梨子ザ・サーモンズがゲストたちに感謝の歌を贈り、

吉田後援会長
のあいさつがつづきました。


そして、元起ゲンキ氏がこの両日のために突貫で編集した、

「さようなら渋谷公会堂公演」
ダイジェスト映像が上映されました。

歌旅座のパフォーマンスに加えて、機材の搬入から舞台構築の様子、

楽屋におけるメンバーの素顔なども映し出され、

そのたびにゲストたちはスクリーンに対して笑い、拍手を送ってくれました。



その後はJUNCO奈梨子による、小さな小さなライブ。

渋公とは当然ながら何もかも違うステージでしたが、

とてもあたたかい空間とひとときを共有できました。



2夜にわたって繰り広げられた後夜祭は

こうして幕を閉じたのです。



「渋公物語」も、これで終了。

でも、いつの日か、再び物語をつづることができるといいですね。

たとえば、3年後に。








北海道歌旅座の渋谷公会堂公演・開催にあたって、
多くの皆様にご協力とご尽力をいただきました。
歌旅座一同、厚く御礼申し上げます。

なお、公演の模様はDVD2枚組として12月下旬に発売いたします。
どうぞご期待ください。


koyasai150930





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150910-JUNCO渋公公演


2015年5月19日

湿気を感じるものの、涼しい風が吹きぬける夕方の東京・赤坂

この夜から3日間にわたって、JUNCOがステージに立つ。

演目は『クライマーズSHOW・東京物語』

この時の一座のメンバーは、スタッフ合わせて5名という少人数。


多くの尽力のおかげで、すでに3夜ともソールドアウト。

会場となった「赤坂ふらっとん」は、北海道からの一座と

都内外からの観客を迎えて連日賑わいを見せた。




第2夜のこと。

ある2人のゲストが着座した。ここでは、O氏M氏と呼ぶ。

ステージが終わると、両氏は歌旅座のBOSSを連れ立って会場をあとにし、

近所の中華料理店「香港楼」に入った。


O氏、M氏との久しぶりの再会に、BOSSはあらためて感慨を深めていた。

35年前、BOSSが社会に出てまもない頃に両氏から舞台技術者としての薫陶を受け、

社会人のイロハまでも授けてくれた、今や大御所の大先輩2人が目の前にいるのだから。

同時に彼らは、渋公で公演される演目を決定できる立場にあり、

他にも国立劇場、東京国際フォーラムなどの名だたる劇場の運営を

取り仕切る会社の社長常務でもあった。

この2人をたとえるなら、長嶋茂雄と王貞治、市川雷蔵と勝新太郎、

1971年頃のニクソンとキッシンジャー。いずれも畏れ多い。


大御所2人は先のステージも楽しんでくれたようで、

穏やかに料理と酒を味わっていた。


O氏とM氏のどちらだったろう、不意に、目の前にいる後輩に云った。

先輩「渋谷公会堂、今年で終わりでね」

後輩「え、それは?」

先輩「渋谷区が取り壊して建て替えるんだよ。10月4日でクローズして」

後輩「いいホールだったのに……残念ですね」

先輩「どう、歌旅座で渋谷公会堂、やってみない?

BOSSは一瞬息を呑んだ。そして、

「……2、3日考える時間ください」



無理もない。

北海道や九州ならまだしも、首都圏ではまったく知名度がない北海道歌旅座

たしかに2010年には杉並区のホール、座・高円寺で公演したことはあるも、

およそ300の席数で5年も前のこと、2000人収容の渋公で公演するには無謀に過ぎる。

考える時間がどうしても必要なのである。

ほどなく、楽しくてスリリングな宴は、お開きとなった。




北海道に戻って、歌旅座メンバーは渋公公演について吟味した。

単純な見栄だけで飛びついては、やはりリスクが高すぎる。

しかし、メンバー全員、一丸で当たれば成功する可能性はある。

この悩ましい命題は最終的に、歌旅座後援会の吉田聰会長の言葉で決した。

「渋公の最後にさ、こういう機会もらったんだから。

 これも意味があるんだ。死ぬ気で協力するから、やるべや」



5月下旬。

後輩であるBOSSから大先輩2人にその意志を伝えることで、

幕は切って落とされた。

6月10日には東京で双方の関係者が出席する会合が設けられ、

様々な事柄を話し合った。

そして、公演日は9月10日と決まった——3ヶ月後



首都圏では誰も知らない歌旅座の周知と集客を目的として、

司会太郎アリタシューヤが毎月東京へ飛んで活動を本格化させた。

梅雨、酷暑、残暑、残酷暑。都内、近県、人から人へ。

後援会員に紹介いただいたり、知人友人、各種企業と団体に音楽家たち、

人々が集う居酒屋の主人たちにも歌旅座の歩みと公演情報を伝えていった。

北海道に縁のある団体と出会い、協賛してくれる企業も少しずつ増えていった。

また、渋公がなくなるという事実は、多くの人にとって驚きだったようだ。





9月10日・早朝

前日に東京入りしていた歌旅座メンバーは土砂降りの雨を呪っていたが、

この大切な日の朝も雨は止んでいなかった。

天気予報では昼頃から雨は上がることになっていたが、

不安にさせるには十分すぎる空模様だった。



7時過ぎに会場入りしたメンバーは機材を搬入し、舞台を構築していった。

渋公のスタッフによる機能的かつ効率的なサポートにより、

配置、音響、照明などの設定は着々と進んだ。



元起 “ゲンキ” 丈晴が率いる映像撮影クルーも現場に到着した。

事前の打ち合わせに応じて、整然とカメラを含む機材を設置していった。



樋口一枝は、いつものように気配を感じさせずに現れた。

久しぶりの渋公楽屋内を一瞥すると、メイク道具を鏡の前に広げていた。



飯塚達央は飄々と登場、関西弁が残る柔らかい口調で周囲に語りかけていた。

写真家として、この日を記録してもらうつもりだ。

 

元・歌旅座メンバーで、現在は東京の会社に勤務するピヨも駆けつけてくれた。

メンバーと再会するたびに「キャーッ」と叫び、渋公内部が少し明るくなった。



札幌から作詞家の北埜うさぎを含む3名と、

おもにマスコミや業界関係者を中心に集客してくれた

東京在住のオカモッチ氏がそれぞれの部署に就いた。



14:00、開場

そして、15:00に開演


たしかに、雨は客足に影響を与えた。

テレビでは特別態勢で洪水被害を報道していた。

音楽を楽しむどころではなかった人もいたことだろう。


そんな状況でも、大勢の方々が渋公に足を運んでくれた。

都内や近隣県から正体不明の一座のために、

そして、北海道からは200名を超える人々が。

いっしょに歌い、手拍子してくれた人々がそこにいてくれた。
 

ステージでは、チープ広石に捧げるコーナーを設けた。

1988年のLOOKラストコンサート、

2007年のC.C.Lemonホール訪問。


2009年JUNCO & CHEEPのツアーを開始して、

グループ名を北海道歌旅座と名乗るようになった頃から、

彼はこのようによく話していたものだ。

「いつか、歌旅座として渋公のステージに立てたら本望だよな」


2014年3月。チープ広石は、他界した。

しかし、生前の彼を知っている者なら、

この日を彼がどんなに喜んでいるかは容易に想像できるはず。


JUNCOをはじめとする歌旅座メンバーは多少の緊張と、

大勢のお客様からの反応、そしてチープ広石の存在を感じながら、

幸福に包まれてステージをやり遂げたのだった。
 






それは、2015年9月10日に終わりを迎え、はじまろうとしていた。

次の街で、新たなステージが北海道歌旅座を待っている。

そのために、旅の準備を整えなければならない。




3日前、ある映像が送られてきた。

タイ王国南部のアンダマン海と、名もない孤島、

そしてBOSSの姿が確認できる。

この映像が何を語っているのかは、わからない。

でも、新たな旅を予感させる手がかりになるかもしれない。



さあ、海に出ようか。







(おわり...でも、歌の旅はつづく



 

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映像は多くの場合、その時代を切り取る。

「もうひとつの渋公物語」の第1回から第4回に引用した映像はその代表例だ。

6年と数ヶ月前のそれらの映像は、当時のその瞬間に記録された。

再生ボタンを押せば、JUNCOチープ広石の姿は――わずかに古臭くも感じるが――

いつでも生き生きと蘇ってくる。



元起丈晴。多くの者は彼を「モトキ」とは呼ばない。

ごく自然に、漢字そのままの「ゲンキ」と声を掛ける。

本人もまんざらではないようだ。



北海道歌旅座には、BOSSと呼ばれる人物がいる。一座の総監督である。

彼とBOSSは30年を超える旧知の仲。盟友のひとりだ。

1988年に渋谷公会堂でおこなわれたLOOKのラストコンサートにおいて、

当時のプロデューサーであったBOSSとともにマネージャーとして現場を仕切った彼は、

2015年9月10日には映像ディレクターという立場で歌旅座の渋公公演を記録していた。

元起 “ゲンキ” 丈晴も、疑いなき「もうひとつの渋公物語」の登場人物である。




映画『セイム・オールド・ストーリー〜20年目の訪問者』の映画祭出品時には、

チープ広石に同行してニューヨークまで渡り、未公開ながらも、

彼の素顔を収めた多数のオフショットを残している。

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チープ広石のプロデュースで、JUNCOは「悲しい色やね」をカバーした。

2人による初めてのプロジェクトだったが、同時にミュージックビデオも制作された。

この映像は、元起丈晴のディレクションによるもの。

ここから彼はJUNCO & CHEEPと関わりをもつことになった。



つづく「名画座」も彼の作品であり、「銀残し」と呼ばれる手法を試している。

これは、渋い色彩と濃淡の強い独特の映像を表現する技法だが、

曲想となった「古い映画」と2人の音楽性が融合して、

ノスタルジックな効果をもたらしているといえるだろう。





富山県滑川市出身の元起丈晴は、チープ広石が所属したバンド

LOOKが1985年に結成した前後には、すでにその場にいた。

1988年のラスト公演にも渋公にいたことは先述したとおり。

チープのソロ活動期間にも彼は関係を繋いでおり、

2008年にはJUNCOと出会うことになった。



以来、元起氏はJUNCOとたびたび酒を飲み交わすのだが、

今日ではお互いに酔いが回ると衝突を重ねて絶交を繰り返すおかしな関係。

少なくとも宴席では、2人の化学反応はいつもマイナスに作用するようだ。

「いつまでも少年以下の心を持った熱い男」とはBOSSの彼に対する評価。



6台の最新鋭ビデオカメラと10人に及ぶプロフェッショナルの映像クルー。

9月10日の渋谷公会堂で歌旅座の撮影を指揮したのは、ゲンキだ。

現在、彼は海を越えてタイ王国バンコクで別の撮影班に加わっている。

そしてホテルに戻れば、9月29・30日に札幌で開催する「後夜祭」のために、

渋公公演ダイジェスト映像の編集を突貫で作業しているはずだ——

狭い宿の一室に機材をまるごと持ち込んで。

 

彼にとって、それは大きな苦労ではない。

たとえば、例のドキュメンタリー映画のクライマックスで使用されたテーマ曲。

彼が機材を北海道の羅臼町公民館に持ち込んで、

その瞬間のチープ広石を記録して完成させた2008年初頭の映像だ。

いつでも生き生きと蘇ってくる映像が残り、それを観る者がいる限り、

ゲンキは喜んで、今夜も自身の仕事に取りかかるだろう。



 
 
 

(つづく) 
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