うたたび ザ・コネクション


カテゴリ : 物語


映像は多くの場合、その時代を切り取る。

「もうひとつの渋公物語」の第1回から第4回に引用した映像はその代表例だ。

6年と数ヶ月前のそれらの映像は、当時のその瞬間に記録された。

再生ボタンを押せば、JUNCOチープ広石の姿は――わずかに古臭くも感じるが――

いつでも生き生きと蘇ってくる。



元起丈晴。多くの者は彼を「モトキ」とは呼ばない。

ごく自然に、漢字そのままの「ゲンキ」と声を掛ける。

本人もまんざらではないようだ。



北海道歌旅座には、BOSSと呼ばれる人物がいる。一座の総監督である。

彼とBOSSは30年を超える旧知の仲。盟友のひとりだ。

1988年に渋谷公会堂でおこなわれたLOOKのラストコンサートにおいて、

当時のプロデューサーであったBOSSとともにマネージャーとして現場を仕切った彼は、

2015年9月10日には映像ディレクターという立場で歌旅座の渋公公演を記録していた。

元起 “ゲンキ” 丈晴も、疑いなき「もうひとつの渋公物語」の登場人物である。




映画『セイム・オールド・ストーリー〜20年目の訪問者』の映画祭出品時には、

チープ広石に同行してニューヨークまで渡り、未公開ながらも、

彼の素顔を収めた多数のオフショットを残している。

genki



チープ広石のプロデュースで、JUNCOは「悲しい色やね」をカバーした。

2人による初めてのプロジェクトだったが、同時にミュージックビデオも制作された。

この映像は、元起丈晴のディレクションによるもの。

ここから彼はJUNCO & CHEEPと関わりをもつことになった。



つづく「名画座」も彼の作品であり、「銀残し」と呼ばれる手法を試している。

これは、渋い色彩と濃淡の強い独特の映像を表現する技法だが、

曲想となった「古い映画」と2人の音楽性が融合して、

ノスタルジックな効果をもたらしているといえるだろう。





富山県滑川市出身の元起丈晴は、チープ広石が所属したバンド

LOOKが1985年に結成した前後には、すでにその場にいた。

1988年のラスト公演にも渋公にいたことは先述したとおり。

チープのソロ活動期間にも彼は関係を繋いでおり、

2008年にはJUNCOと出会うことになった。



以来、元起氏はJUNCOとたびたび酒を飲み交わすのだが、

今日ではお互いに酔いが回ると衝突を重ねて絶交を繰り返すおかしな関係。

少なくとも宴席では、2人の化学反応はいつもマイナスに作用するようだ。

「いつまでも少年以下の心を持った熱い男」とはBOSSの彼に対する評価。



6台の最新鋭ビデオカメラと10人に及ぶプロフェッショナルの映像クルー。

9月10日の渋谷公会堂で歌旅座の撮影を指揮したのは、ゲンキだ。

現在、彼は海を越えてタイ王国バンコクで別の撮影班に加わっている。

そしてホテルに戻れば、9月29・30日に札幌で開催する「後夜祭」のために、

渋公公演ダイジェスト映像の編集を突貫で作業しているはずだ——

狭い宿の一室に機材をまるごと持ち込んで。

 

彼にとって、それは大きな苦労ではない。

たとえば、例のドキュメンタリー映画のクライマックスで使用されたテーマ曲。

彼が機材を北海道の羅臼町公民館に持ち込んで、

その瞬間のチープ広石を記録して完成させた2008年初頭の映像だ。

いつでも生き生きと蘇ってくる映像が残り、それを観る者がいる限り、

ゲンキは喜んで、今夜も自身の仕事に取りかかるだろう。



 
 
 

(つづく) 
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その女性もまた、JUNCO & CHEEPを支えてきた。

80〜90年代、スタイリスト/メイクアップアーティストとして

樋口一枝の名と技術は業界で知られていた。


1984年にデビューしたロックバンド・レベッカの女性ヴォーカル、


NOKKOを手掛けていた、といえば理解が進むだろう。





そんな彼女が、現在はJUNCOのヘアやメイクを担当しているのだ。

この出会いは、第3回に登場した写真家、飯塚達央がつくった。


旭川市にフォトスタジオを構えていた飯塚氏はJUNCO & CHEEPを迎えて、


2人の新たなアーティスト写真を撮り下ろすことになっていた。


衣装や髪形などもこれまでの2人と異なったスタイルで記録したい。


飯塚氏は、これまでにもブライダルの撮影で協力を仰いでいた樋口一枝に声を掛けた。


JUNCOとチープ広石は彼女の手によって磨き上げられ、


とくにJUNCOはその後の公演においても彼女の手で彩られていった。


junco_makeupz

樋口氏は北海道で生まれ、各地を転々とし、

東京で活動した後に米国へ向かった。


帰ってきた先は旭川。


この地で美容室を営みながら、本業の合間を縫って様々な活動を展開しているが、


歌旅座の旭川公演の多くには彼女の尽力と技術が加味されている。




変わったところでは、趣味が高じてJUNCOとともにプロデュースした


淳子乃石鹸は今でも歌旅座グッズのひとつとして人気を博している。


また、地域コミュニティにおける事業にも積極的に関わっていることも


動きを止められないという、彼女の性格を現しているだろう。


junco_stage_nocturne


過日の9月10日、樋口一枝は渋谷公会堂へ久しぶりに足を踏み入れた。

そこは、彼女の仕事場でもあった。


彼女自身にスポットライトが当たることはなかったが、


華やかなステージに多くのアーティストを送り出してきたひとりだった。


今回、JUNCOをはじめとする北海道歌旅座の面々に、樋口一枝独自の魔法を施した。


観客の目にどう映えたのかは、彼女がもっとも感じているところだろう。


そして、次の動きに向けて走り出すに違いない。





ある映像を見つけることができた。

東南アジア諸国連合(ASEAN)と日本・中国・韓国の計13ヵ国からシンガーを集めた、

ラーマ9世・タイ国王の在位63周年記念するコンサートの記録。

2009年5月のこと。


同国からのオファーに応えてJUNCOとヴァイオリン奏者の高杉奈梨子

日本を代表して
出演、タイをはじめとするアジア各国に生放送された際の映像だ。

ところで、JUNCOと奈梨子のメイクは現地の人の手によるものだ。

とにかく派手な美粧なのだ。「ケバい」という表現が近い。


(映像では、ダイレクト過ぎるJUNCOのメイクが帽子の影で隠れているのが救いである)


この場に樋口一枝が現場にいたら、すぐさまチークブラシを取り上げて


「あなたは引っ込んでいなさい」と日本語でタイ人を叱責しただろう。


だが、この時点では、彼女とまだ出会っていなかったのだ。



 
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J&C夕張2009z


「いっしょに飲んでいて、楽しいヤツだったから」。


チープ広石は北海道で活動する女性シンガーJUNCOとCDアルバムを制作し、

ユニットを結成して『北海道180市町村公演』をスタートさせた。

冒頭の言葉は「彼はなぜ彼女を選んだのか」と訊いて、

彼が躊躇なく答えたものである。


つまりは、2人はスタジオに籠もる以前、

何度かは不明だが、杯を交わしながらの面談の機会をつくっていたことになる。

少なくともチープはJUNCOにある種の可能性を認めていたに違いない。

だから、彼女を呼び出した。

JUNCOもチープと出会って新たな才能を導き出してくれることを期待していたはず。

だから彼の呼びかけに応じた。

両人に共通していたのは、酒を飲みながら語らうことが好きだったこと。

いや、もしかしたら、酒を飲むことが好きで、語らいは肴代わりだったかもしれない。


そして、お互いにもっていたであろう警戒心を少しずつ剥がしてゆき、

冗句を言い合って反応を確かめ合い、ひとつの覚悟を決めたのだ。

政治家でも会社員でも、また、出会ってまもない音楽家同士だとしても、

多くの場合、酒席とは古くからそういうものだ。




JUNCO & CHEEPとして最初のステージが夕張市で決定したことに伴い、

2人には腹案があった。『北海道180市町村公演』を開始する記念テーマとして、

夕張を象徴するような新曲を現地で披露することだ。

ただし、「頑張れ、立ち上がれ」といった、エールを送るような内容は避けたかった。

同市での生活経験もなく、まして親戚縁者もいないヨソ者がそう歌っても現実味に欠け、

ただの偽善として感じられてしまう不安もあったからだ。


ゆうばり国際ファンタスティック映画祭は1990年にはじまり、

以来「映画の街」として全国に知られるようになっていた。

同市随所には名作といわれる映画作品の手書き看板が掲げられている。

意を得た2人は映画を題材とした楽曲づくりに取りかかった。




前後して、2人を記録するために、ある男が現れた。

飯塚達央は、JUNCO & CHEEPが最初の舞台に立つ以前から

彼らをレンズ越しに見つめてきた。

また、それ以降も公演会場のどこかで、あるいは自身の撮影スタジオで

複数の写真機を器用に駆使して2人にフォーカスをあわせてきた。

JUNCO & CHEEPから北海道歌旅座の様々な局面に、彼はいた。


実は、渋谷公会堂公演にも彼の姿が確認されている。

が、この時点において、それはまだ遠い未来の話だ。



飯塚達央は関西の生まれで、1996年より北海道に移り住んでいた。

スタッフが道内の写真展やJR北海道の車内誌に彼の名前と作品を見つけた。

さっそく飯塚氏にコンタクトをとった。これは、巡り合わせである。

彼は幸福に包まれる家族やカップルらの人物撮影で評価を高めてきたが、

本領は北海道の自然や寂れた街角の風景などにも発輝される。

JUNCO & CHEEP、そして、夕張という街は格好の舞台だ。

飯塚氏による2人のアーティスト写真は、2009年1月に記録された。


同時に映像チームが組織され、プロモーションビデオの撮影も
夕張市民会館を借り切っておこなわれた。

屋外のロケでは氷点下15度のなかでビデオカメラを回し続け、

夕張の街を散策する壮年の男女の姿を収録した――この2人は誰? 正体を明かすのは野暮。




果たして、楽曲は仕上がり、プロモーションビデオも完成した。

その演奏と映像は、夕張のステージで初披露された。

「名画座」は、当時の彼らが制作中のファーストアルバムに収録され、

その後、数々の公演でオープニングを飾ることになる重要な曲となった。 


 


なお、巻頭の写真は最初期のJUNCO & CHEEPを捉えた、飯塚達央の作品である。

 


(つづく)







謝意  飯塚達央さんと斉藤康仁さんへ。

 

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チープ広石は器用な男だった。
作詞・作曲・編曲・演奏・歌唱をこなし、
才能あるミュージシャンとユニットを組んで作品を発表したり、
自身名義のソロアルバムをリリースしてきた。
若い世代の育成にも余念がない。
一方で、ラジオのパーソナリティーとしても定評を得ていた。
どの活動も、あの「聖夜の渋公」以降のものである。


2007年、彼のラジオ番組に、ある女性シンガーがゲスト出演した。
彼女は笑顔なのだが、かすれ気味の小さな声でチープに反応していた。
しかし、時間が進むにつれて彼女はよく笑い、よく喋り、より声が大きくなり、
番組の終盤になるとスタジオ内は和やかな空間に変わっていた。

マイクロフォンの電源が切れた後、チープは彼女との再会を誓って別れたのだが、
この年の暮れにその約束はあっさりと果たされることとなった。
チープ広石のクリマスライブにおいて。

夕方に開演したステージも深い夜に陥った頃、かろうじて意識を保った酔客の前で、
やはり酔いどれと化したチープと女性シンガーの共演がはじまった。
彼女は嗚咽に逆らいながら歌った。チープは彼女の隣りにいた——楽しそうに。
1988年から19年後、2007年の聖夜のこと。



2008年に入ると、チープは活動をさらに加速させた。
映画『セイム・オールド・ストーリー~20年目の訪問者』の公開とそれに伴うステージ。
彼の盟友で作曲家の林哲司氏吉田朋代氏からなる音楽ユニット・
グルニオンのメンバーとしての活動。
東京の自宅と北海道との往復も増えた。

夏から秋にかけて、林哲司氏の活動35周年を記念したCD作品を彼が手掛けることに。
林氏が世に送り出した4つの名曲を、4人の女性シンガーにカバーさせるという企画。
チープが選び出した4人の女性が集まった。そのなかには、あの彼女もいた。
聖夜に嗚咽を我慢して歌いきった女——名前はJUNCOという。
チープが彼女に与えた楽曲は「悲しい色やね」
彼の要望に、彼女は歌で応えることができた。



2009年が明けて、2人はスタジオに籠もっていた。CDアルバムを制作するために。
双方のオリジナル曲やカバー曲を持ち寄り、議論し、編曲し、歌い、演奏して、録音した。
窓のないスタジオから休憩のために外へ出ると、
空は夕焼けではなく日の出を迎えていたこともあった。
アルコール飲料で喉と心を癒やして明日の課題を居酒屋で語らった。
彼が東京へ戻ると、残された彼女はひとりで新曲をせっせとつくった。 



2009年2月末。2人は北海道夕張市の特設ステージにいた。
ゆうばり国際ファンタスティック映画祭に『セイム・オールド・ストーリー』を
上映する機会を得たため、初めて2人が正式なデビューの場として選ばれたのが、
財政再建団体に指定されたこの地。

ユニット名は、JUNCO & CHEEP
シンプルで古めかしいネーミングではあるが、
「覚えやすくて郷愁感を誘う名を」という考えのもと、
2人であえて狙ったものだ。

さらに、もうひとつ、2人には成し遂げたいことがあった。
北海道経済を支えていた都市銀行の破綻、リーマンショック。
少子高齢化や景気低迷が他都府県より激しいとされる北海道、
当時180を数えたすべての市町村に音楽を手渡ししていこう、
音楽を届けて元気と感動を分け合おう、5年でも10年かかっても、と。
彼女の提案に、彼は乗った。

ついに、はじまった。
 
ここ夕張で、 JUNCO & CHEEP『北海道180市町村公演ツアー』の幕は、
2人が演奏する第1曲目、呼吸を合わせるカウントコールとともに切って下ろされた。

そして、4月にリリースされた2人のアルバムは、
『悲しいことは数あれど』と名付けられた。 

悲しいことは数あれど



お気づきのように、この回で「渋公」は出てこない。 
この時点では、各地のホールだって演奏できる確約はまったくない。
仮定の話題や思いつきだとしても、渋公にまで思いが到ることはあり得なかったのだ。

しかし、旅ははじまったばかり。
2人を中心としてあらゆる物事が動こうとしていた。
止めることはできない。
夕張の4日間連続公演は、それぞれの希望を輝かせるのに十分な舞台だったのだ。



ただし、誰にも気づかれずに、あまりにも静かに、
ゆっくりと回転をはじめていたものもあった。

本人でさえも知らない何かが。
 

(つづく)
 
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それは、1988(昭和63)年に終わりを迎え、はじまろうとしていた。

昭和最後のクリスマス、渋谷公会堂(渋公)では、あるロックバンドが
最後のステージを迎えていた。
バンドはメロディーとビートに光と音を満員の客席に次から次へと浴びせかけ、
大半を占める女性客たちは叫声と奇声、拍手でそれに応える――この光景は渋公
では日常ではあるが、その日をもって解散を迎えるバンドメンバーやスタッフ、
そして観客にとっては記憶すべき特別な聖夜であった。
しかし、もうひとつの渋公を物語るための序章でもあったことは、
当時のここにいた誰もが知る由もない。



ここに、ある記録映画の断片がある。
2008年に公開された『セイム・オールド・ストーリー~20年目の訪問者』
主人公の名前は、チープ広石。肩書はサクソフォーン奏者、シンガー、
音楽プロデューサー。そして、80年代に活躍したLOOKというバンドの元メンバー。

北海道、ニューヨーク、彼が生まれ育った東京を舞台に、ミュージシャンである
彼を通じて20年という歳月の意味を追ったこの映画は、
ニューヨーク国際インディペンデント映画祭で最優秀国際音楽賞を受賞した。

映像の中で彼は、飲料会社による施設命名権の獲得で「渋谷C.C.Lemonホール」
となった建造物の前に立つ。そこは、過去・現在・未来が交差する場所。
そして彼は、記憶をたぐり寄せながら訥々と渋公のこと、
あの聖夜に起きたことを語りはじめるのだった――。


 

彼がいたロックバンドは才能豊かな4人をメインに、サポートメンバーを加えて
日本全国をコンサートツアーで周回していたが、解散を決定して最後の舞台として
選んだのが渋公であった。

たしかに、数多くの公演をこなしてきた彼らにとって、
渋公はコンサートホールのひとつでしかない。
だが、それ以上の、深い意味をもつホールであることも間違いはないだろう。
なぜならその時、映像の背景に彼自身が選んだのが「そこ」だったからだ。



まだ、はじまってはいない。
が、はじまろうとしていた。
何かが動き出すには、ある出会いが必要となる。



(つづく)

 

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