北海道歌旅座コンサートスケジュール

歌旅座テレビ

カテゴリ : 物語

J&C夕張2009z


「いっしょに飲んでいて、楽しいヤツだったから」。


チープ広石は北海道で活動する女性シンガーJUNCOとCDアルバムを制作し、

ユニットを結成して『北海道180市町村公演』をスタートさせた。

冒頭の言葉は「彼はなぜ彼女を選んだのか」と訊いて、

彼が躊躇なく答えたものである。


つまりは、2人はスタジオに籠もる以前、

何度かは不明だが、杯を交わしながらの面談の機会をつくっていたことになる。

少なくともチープはJUNCOにある種の可能性を認めていたに違いない。

だから、彼女を呼び出した。

JUNCOもチープと出会って新たな才能を導き出してくれることを期待していたはず。

だから彼の呼びかけに応じた。

両人に共通していたのは、酒を飲みながら語らうことが好きだったこと。

いや、もしかしたら、酒を飲むことが好きで、語らいは肴代わりだったかもしれない。


そして、お互いにもっていたであろう警戒心を少しずつ剥がしてゆき、

冗句を言い合って反応を確かめ合い、ひとつの覚悟を決めたのだ。

政治家でも会社員でも、また、出会ってまもない音楽家同士だとしても、

多くの場合、酒席とは古くからそういうものだ。




JUNCO & CHEEPとして最初のステージが夕張市で決定したことに伴い、

2人には腹案があった。『北海道180市町村公演』を開始する記念テーマとして、

夕張を象徴するような新曲を現地で披露することだ。

ただし、「頑張れ、立ち上がれ」といった、エールを送るような内容は避けたかった。

同市での生活経験もなく、まして親戚縁者もいないヨソ者がそう歌っても現実味に欠け、

ただの偽善として感じられてしまう不安もあったからだ。


ゆうばり国際ファンタスティック映画祭は1990年にはじまり、

以来「映画の街」として全国に知られるようになっていた。

同市随所には名作といわれる映画作品の手書き看板が掲げられている。

意を得た2人は映画を題材とした楽曲づくりに取りかかった。




前後して、2人を記録するために、ある男が現れた。

飯塚達央は、JUNCO & CHEEPが最初の舞台に立つ以前から

彼らをレンズ越しに見つめてきた。

また、それ以降も公演会場のどこかで、あるいは自身の撮影スタジオで

複数の写真機を器用に駆使して2人にフォーカスをあわせてきた。

JUNCO & CHEEPから北海道歌旅座の様々な局面に、彼はいた。


実は、渋谷公会堂公演にも彼の姿が確認されている。

が、この時点において、それはまだ遠い未来の話だ。



飯塚達央は関西の生まれで、1996年より北海道に移り住んでいた。

スタッフが道内の写真展やJR北海道の車内誌に彼の名前と作品を見つけた。

さっそく飯塚氏にコンタクトをとった。これは、巡り合わせである。

彼は幸福に包まれる家族やカップルらの人物撮影で評価を高めてきたが、

本領は北海道の自然や寂れた街角の風景などにも発輝される。

JUNCO & CHEEP、そして、夕張という街は格好の舞台だ。

飯塚氏による2人のアーティスト写真は、2009年1月に記録された。


同時に映像チームが組織され、プロモーションビデオの撮影も
夕張市民会館を借り切っておこなわれた。

屋外のロケでは氷点下15度のなかでビデオカメラを回し続け、

夕張の街を散策する壮年の男女の姿を収録した――この2人は誰? 正体を明かすのは野暮。




果たして、楽曲は仕上がり、プロモーションビデオも完成した。

その演奏と映像は、夕張のステージで初披露された。

「名画座」は、当時の彼らが制作中のファーストアルバムに収録され、

その後、数々の公演でオープニングを飾ることになる重要な曲となった。 


 


なお、巻頭の写真は最初期のJUNCO & CHEEPを捉えた、飯塚達央の作品である。

 


(つづく)







謝意  飯塚達央さんと斉藤康仁さんへ。

 


チープ広石は器用な男だった。
作詞・作曲・編曲・演奏・歌唱をこなし、
才能あるミュージシャンとユニットを組んで作品を発表したり、
自身名義のソロアルバムをリリースしてきた。
若い世代の育成にも余念がない。
一方で、ラジオのパーソナリティーとしても定評を得ていた。
どの活動も、あの「聖夜の渋公」以降のものである。


2007年、彼のラジオ番組に、ある女性シンガーがゲスト出演した。
彼女は笑顔なのだが、かすれ気味の小さな声でチープに反応していた。
しかし、時間が進むにつれて彼女はよく笑い、よく喋り、より声が大きくなり、
番組の終盤になるとスタジオ内は和やかな空間に変わっていた。

マイクロフォンの電源が切れた後、チープは彼女との再会を誓って別れたのだが、
この年の暮れにその約束はあっさりと果たされることとなった。
チープ広石のクリマスライブにおいて。

夕方に開演したステージも深い夜に陥った頃、かろうじて意識を保った酔客の前で、
やはり酔いどれと化したチープと女性シンガーの共演がはじまった。
彼女は嗚咽に逆らいながら歌った。チープは彼女の隣りにいた——楽しそうに。
1988年から19年後、2007年の聖夜のこと。



2008年に入ると、チープは活動をさらに加速させた。
映画『セイム・オールド・ストーリー~20年目の訪問者』の公開とそれに伴うステージ。
彼の盟友で作曲家の林哲司氏吉田朋代氏からなる音楽ユニット・
グルニオンのメンバーとしての活動。
東京の自宅と北海道との往復も増えた。

夏から秋にかけて、林哲司氏の活動35周年を記念したCD作品を彼が手掛けることに。
林氏が世に送り出した4つの名曲を、4人の女性シンガーにカバーさせるという企画。
チープが選び出した4人の女性が集まった。そのなかには、あの彼女もいた。
聖夜に嗚咽を我慢して歌いきった女——名前はJUNCOという。
チープが彼女に与えた楽曲は「悲しい色やね」
彼の要望に、彼女は歌で応えることができた。



2009年が明けて、2人はスタジオに籠もっていた。CDアルバムを制作するために。
双方のオリジナル曲やカバー曲を持ち寄り、議論し、編曲し、歌い、演奏して、録音した。
窓のないスタジオから休憩のために外へ出ると、
空は夕焼けではなく日の出を迎えていたこともあった。
アルコール飲料で喉と心を癒やして明日の課題を居酒屋で語らった。
彼が東京へ戻ると、残された彼女はひとりで新曲をせっせとつくった。 



2009年2月末。2人は北海道夕張市の特設ステージにいた。
ゆうばり国際ファンタスティック映画祭に『セイム・オールド・ストーリー』を
上映する機会を得たため、初めて2人が正式なデビューの場として選ばれたのが、
財政再建団体に指定されたこの地。

ユニット名は、JUNCO & CHEEP
シンプルで古めかしいネーミングではあるが、
「覚えやすくて郷愁感を誘う名を」という考えのもと、
2人であえて狙ったものだ。

さらに、もうひとつ、2人には成し遂げたいことがあった。
北海道経済を支えていた都市銀行の破綻、リーマンショック。
少子高齢化や景気低迷が他都府県より激しいとされる北海道、
当時180を数えたすべての市町村に音楽を手渡ししていこう、
音楽を届けて元気と感動を分け合おう、5年でも10年かかっても、と。
彼女の提案に、彼は乗った。

ついに、はじまった。
 
ここ夕張で、 JUNCO & CHEEP『北海道180市町村公演ツアー』の幕は、
2人が演奏する第1曲目、呼吸を合わせるカウントコールとともに切って下ろされた。

そして、4月にリリースされた2人のアルバムは、
『悲しいことは数あれど』と名付けられた。 

悲しいことは数あれど



お気づきのように、この回で「渋公」は出てこない。 
この時点では、各地のホールだって演奏できる確約はまったくない。
仮定の話題や思いつきだとしても、渋公にまで思いが到ることはあり得なかったのだ。

しかし、旅ははじまったばかり。
2人を中心としてあらゆる物事が動こうとしていた。
止めることはできない。
夕張の4日間連続公演は、それぞれの希望を輝かせるのに十分な舞台だったのだ。



ただし、誰にも気づかれずに、あまりにも静かに、
ゆっくりと回転をはじめていたものもあった。

本人でさえも知らない何かが。
 

(つづく)
 


それは、1988(昭和63)年に終わりを迎え、はじまろうとしていた。

昭和最後のクリスマス、渋谷公会堂(渋公)では、あるロックバンドが
最後のステージを迎えていた。
バンドはメロディーとビートに光と音を満員の客席に次から次へと浴びせかけ、
大半を占める女性客たちは叫声と奇声、拍手でそれに応える――この光景は渋公
では日常ではあるが、その日をもって解散を迎えるバンドメンバーやスタッフ、
そして観客にとっては記憶すべき特別な聖夜であった。
しかし、もうひとつの渋公を物語るための序章でもあったことは、
当時のここにいた誰もが知る由もない。



ここに、ある記録映画の断片がある。
2008年に公開された『セイム・オールド・ストーリー~20年目の訪問者』
主人公の名前は、チープ広石。肩書はサクソフォーン奏者、シンガー、
音楽プロデューサー。そして、80年代に活躍したLOOKというバンドの元メンバー。

北海道、ニューヨーク、彼が生まれ育った東京を舞台に、ミュージシャンである
彼を通じて20年という歳月の意味を追ったこの映画は、
ニューヨーク国際インディペンデント映画祭で最優秀国際音楽賞を受賞した。

映像の中で彼は、飲料会社による施設命名権の獲得で「渋谷C.C.Lemonホール」
となった建造物の前に立つ。そこは、過去・現在・未来が交差する場所。
そして彼は、記憶をたぐり寄せながら訥々と渋公のこと、
あの聖夜に起きたことを語りはじめるのだった――。


 

彼がいたロックバンドは才能豊かな4人をメインに、サポートメンバーを加えて
日本全国をコンサートツアーで周回していたが、解散を決定して最後の舞台として
選んだのが渋公であった。

たしかに、数多くの公演をこなしてきた彼らにとって、
渋公はコンサートホールのひとつでしかない。
だが、それ以上の、深い意味をもつホールであることも間違いはないだろう。
なぜならその時、映像の背景に彼自身が選んだのが「そこ」だったからだ。



まだ、はじまってはいない。
が、はじまろうとしていた。
何かが動き出すには、ある出会いが必要となる。



(つづく)

 

このページのトップヘ



© DMJ, INC. ALL RIGHTS RESERVED.