うたたび ザ・コネクション


カテゴリ : 物語


9月29日
30日の夜、札幌の円山夜想(マルヤマノクターン)

北海道歌旅座「ありがとう渋谷公会堂・後夜祭」のために、

各地からゲストたちがこの小さなライブハウスに駆けつけてくれました。

あの日そこににいた人たち、行けなかった人たち、

近隣の街から、十勝、釧路、関東から。 


 
北埜うさぎの登場とともに会は幕を開け、

JUNCO
高杉奈梨子ザ・サーモンズがゲストたちに感謝の歌を贈り、

吉田後援会長
のあいさつがつづきました。


そして、元起ゲンキ氏がこの両日のために突貫で編集した、

「さようなら渋谷公会堂公演」
ダイジェスト映像が上映されました。

歌旅座のパフォーマンスに加えて、機材の搬入から舞台構築の様子、

楽屋におけるメンバーの素顔なども映し出され、

そのたびにゲストたちはスクリーンに対して笑い、拍手を送ってくれました。



その後はJUNCO奈梨子による、小さな小さなライブ。

渋公とは当然ながら何もかも違うステージでしたが、

とてもあたたかい空間とひとときを共有できました。



2夜にわたって繰り広げられた後夜祭は

こうして幕を閉じたのです。



「渋公物語」も、これで終了。

でも、いつの日か、再び物語をつづることができるといいですね。

たとえば、3年後に。








北海道歌旅座の渋谷公会堂公演・開催にあたって、
多くの皆様にご協力とご尽力をいただきました。
歌旅座一同、厚く御礼申し上げます。

なお、公演の模様はDVD2枚組として12月下旬に発売いたします。
どうぞご期待ください。


koyasai150930





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150910-JUNCO渋公公演


2015年5月19日

湿気を感じるものの、涼しい風が吹きぬける夕方の東京・赤坂

この夜から3日間にわたって、JUNCOがステージに立つ。

演目は『クライマーズSHOW・東京物語』

この時の一座のメンバーは、スタッフ合わせて5名という少人数。


多くの尽力のおかげで、すでに3夜ともソールドアウト。

会場となった「赤坂ふらっとん」は、北海道からの一座と

都内外からの観客を迎えて連日賑わいを見せた。




第2夜のこと。

ある2人のゲストが着座した。ここでは、O氏M氏と呼ぶ。

ステージが終わると、両氏は歌旅座のBOSSを連れ立って会場をあとにし、

近所の中華料理店「香港楼」に入った。


O氏、M氏との久しぶりの再会に、BOSSはあらためて感慨を深めていた。

35年前、BOSSが社会に出てまもない頃に両氏から舞台技術者としての薫陶を受け、

社会人のイロハまでも授けてくれた、今や大御所の大先輩2人が目の前にいるのだから。

同時に彼らは、渋公で公演される演目を決定できる立場にあり、

他にも国立劇場、東京国際フォーラムなどの名だたる劇場の運営を

取り仕切る会社の社長常務でもあった。

この2人をたとえるなら、長嶋茂雄と王貞治、市川雷蔵と勝新太郎、

1971年頃のニクソンとキッシンジャー。いずれも畏れ多い。


大御所2人は先のステージも楽しんでくれたようで、

穏やかに料理と酒を味わっていた。


O氏とM氏のどちらだったろう、不意に、目の前にいる後輩に云った。

先輩「渋谷公会堂、今年で終わりでね」

後輩「え、それは?」

先輩「渋谷区が取り壊して建て替えるんだよ。10月4日でクローズして」

後輩「いいホールだったのに……残念ですね」

先輩「どう、歌旅座で渋谷公会堂、やってみない?

BOSSは一瞬息を呑んだ。そして、

「……2、3日考える時間ください」



無理もない。

北海道や九州ならまだしも、首都圏ではまったく知名度がない北海道歌旅座

たしかに2010年には杉並区のホール、座・高円寺で公演したことはあるも、

およそ300の席数で5年も前のこと、2000人収容の渋公で公演するには無謀に過ぎる。

考える時間がどうしても必要なのである。

ほどなく、楽しくてスリリングな宴は、お開きとなった。




北海道に戻って、歌旅座メンバーは渋公公演について吟味した。

単純な見栄だけで飛びついては、やはりリスクが高すぎる。

しかし、メンバー全員、一丸で当たれば成功する可能性はある。

この悩ましい命題は最終的に、歌旅座後援会の吉田聰会長の言葉で決した。

「渋公の最後にさ、こういう機会もらったんだから。

 これも意味があるんだ。死ぬ気で協力するから、やるべや」



5月下旬。

後輩であるBOSSから大先輩2人にその意志を伝えることで、

幕は切って落とされた。

6月10日には東京で双方の関係者が出席する会合が設けられ、

様々な事柄を話し合った。

そして、公演日は9月10日と決まった——3ヶ月後



首都圏では誰も知らない歌旅座の周知と集客を目的として、

司会太郎アリタシューヤが毎月東京へ飛んで活動を本格化させた。

梅雨、酷暑、残暑、残酷暑。都内、近県、人から人へ。

後援会員に紹介いただいたり、知人友人、各種企業と団体に音楽家たち、

人々が集う居酒屋の主人たちにも歌旅座の歩みと公演情報を伝えていった。

北海道に縁のある団体と出会い、協賛してくれる企業も少しずつ増えていった。

また、渋公がなくなるという事実は、多くの人にとって驚きだったようだ。





9月10日・早朝

前日に東京入りしていた歌旅座メンバーは土砂降りの雨を呪っていたが、

この大切な日の朝も雨は止んでいなかった。

天気予報では昼頃から雨は上がることになっていたが、

不安にさせるには十分すぎる空模様だった。



7時過ぎに会場入りしたメンバーは機材を搬入し、舞台を構築していった。

渋公のスタッフによる機能的かつ効率的なサポートにより、

配置、音響、照明などの設定は着々と進んだ。



元起 “ゲンキ” 丈晴が率いる映像撮影クルーも現場に到着した。

事前の打ち合わせに応じて、整然とカメラを含む機材を設置していった。



樋口一枝は、いつものように気配を感じさせずに現れた。

久しぶりの渋公楽屋内を一瞥すると、メイク道具を鏡の前に広げていた。



飯塚達央は飄々と登場、関西弁が残る柔らかい口調で周囲に語りかけていた。

写真家として、この日を記録してもらうつもりだ。

 

元・歌旅座メンバーで、現在は東京の会社に勤務するピヨも駆けつけてくれた。

メンバーと再会するたびに「キャーッ」と叫び、渋公内部が少し明るくなった。



札幌から作詞家の北埜うさぎを含む3名と、

おもにマスコミや業界関係者を中心に集客してくれた

東京在住のオカモッチ氏がそれぞれの部署に就いた。



14:00、開場

そして、15:00に開演


たしかに、雨は客足に影響を与えた。

テレビでは特別態勢で洪水被害を報道していた。

音楽を楽しむどころではなかった人もいたことだろう。


そんな状況でも、大勢の方々が渋公に足を運んでくれた。

都内や近隣県から正体不明の一座のために、

そして、北海道からは200名を超える人々が。

いっしょに歌い、手拍子してくれた人々がそこにいてくれた。
 

ステージでは、チープ広石に捧げるコーナーを設けた。

1988年のLOOKラストコンサート、

2007年のC.C.Lemonホール訪問。


2009年JUNCO & CHEEPのツアーを開始して、

グループ名を北海道歌旅座と名乗るようになった頃から、

彼はこのようによく話していたものだ。

「いつか、歌旅座として渋公のステージに立てたら本望だよな」


2014年3月。チープ広石は、他界した。

しかし、生前の彼を知っている者なら、

この日を彼がどんなに喜んでいるかは容易に想像できるはず。


JUNCOをはじめとする歌旅座メンバーは多少の緊張と、

大勢のお客様からの反応、そしてチープ広石の存在を感じながら、

幸福に包まれてステージをやり遂げたのだった。
 






それは、2015年9月10日に終わりを迎え、はじまろうとしていた。

次の街で、新たなステージが北海道歌旅座を待っている。

そのために、旅の準備を整えなければならない。




3日前、ある映像が送られてきた。

タイ王国南部のアンダマン海と、名もない孤島、

そしてBOSSの姿が確認できる。

この映像が何を語っているのかは、わからない。

でも、新たな旅を予感させる手がかりになるかもしれない。



さあ、海に出ようか。







(おわり...でも、歌の旅はつづく



 

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映像は多くの場合、その時代を切り取る。

「もうひとつの渋公物語」の第1回から第4回に引用した映像はその代表例だ。

6年と数ヶ月前のそれらの映像は、当時のその瞬間に記録された。

再生ボタンを押せば、JUNCOチープ広石の姿は――わずかに古臭くも感じるが――

いつでも生き生きと蘇ってくる。



元起丈晴。多くの者は彼を「モトキ」とは呼ばない。

ごく自然に、漢字そのままの「ゲンキ」と声を掛ける。

本人もまんざらではないようだ。



北海道歌旅座には、BOSSと呼ばれる人物がいる。一座の総監督である。

彼とBOSSは30年を超える旧知の仲。盟友のひとりだ。

1988年に渋谷公会堂でおこなわれたLOOKのラストコンサートにおいて、

当時のプロデューサーであったBOSSとともにマネージャーとして現場を仕切った彼は、

2015年9月10日には映像ディレクターという立場で歌旅座の渋公公演を記録していた。

元起 “ゲンキ” 丈晴も、疑いなき「もうひとつの渋公物語」の登場人物である。




映画『セイム・オールド・ストーリー〜20年目の訪問者』の映画祭出品時には、

チープ広石に同行してニューヨークまで渡り、未公開ながらも、

彼の素顔を収めた多数のオフショットを残している。

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チープ広石のプロデュースで、JUNCOは「悲しい色やね」をカバーした。

2人による初めてのプロジェクトだったが、同時にミュージックビデオも制作された。

この映像は、元起丈晴のディレクションによるもの。

ここから彼はJUNCO & CHEEPと関わりをもつことになった。



つづく「名画座」も彼の作品であり、「銀残し」と呼ばれる手法を試している。

これは、渋い色彩と濃淡の強い独特の映像を表現する技法だが、

曲想となった「古い映画」と2人の音楽性が融合して、

ノスタルジックな効果をもたらしているといえるだろう。





富山県滑川市出身の元起丈晴は、チープ広石が所属したバンド

LOOKが1985年に結成した前後には、すでにその場にいた。

1988年のラスト公演にも渋公にいたことは先述したとおり。

チープのソロ活動期間にも彼は関係を繋いでおり、

2008年にはJUNCOと出会うことになった。



以来、元起氏はJUNCOとたびたび酒を飲み交わすのだが、

今日ではお互いに酔いが回ると衝突を重ねて絶交を繰り返すおかしな関係。

少なくとも宴席では、2人の化学反応はいつもマイナスに作用するようだ。

「いつまでも少年以下の心を持った熱い男」とはBOSSの彼に対する評価。



6台の最新鋭ビデオカメラと10人に及ぶプロフェッショナルの映像クルー。

9月10日の渋谷公会堂で歌旅座の撮影を指揮したのは、ゲンキだ。

現在、彼は海を越えてタイ王国バンコクで別の撮影班に加わっている。

そしてホテルに戻れば、9月29・30日に札幌で開催する「後夜祭」のために、

渋公公演ダイジェスト映像の編集を突貫で作業しているはずだ——

狭い宿の一室に機材をまるごと持ち込んで。

 

彼にとって、それは大きな苦労ではない。

たとえば、例のドキュメンタリー映画のクライマックスで使用されたテーマ曲。

彼が機材を北海道の羅臼町公民館に持ち込んで、

その瞬間のチープ広石を記録して完成させた2008年初頭の映像だ。

いつでも生き生きと蘇ってくる映像が残り、それを観る者がいる限り、

ゲンキは喜んで、今夜も自身の仕事に取りかかるだろう。



 
 
 

(つづく) 
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その女性もまた、JUNCO & CHEEPを支えてきた。

80〜90年代、スタイリスト/メイクアップアーティストとして

樋口一枝の名と技術は業界で知られていた。


1984年にデビューしたロックバンド・レベッカの女性ヴォーカル、


NOKKOを手掛けていた、といえば理解が進むだろう。





そんな彼女が、現在はJUNCOのヘアやメイクを担当しているのだ。

この出会いは、第3回に登場した写真家、飯塚達央がつくった。


旭川市にフォトスタジオを構えていた飯塚氏はJUNCO & CHEEPを迎えて、


2人の新たなアーティスト写真を撮り下ろすことになっていた。


衣装や髪形などもこれまでの2人と異なったスタイルで記録したい。


飯塚氏は、これまでにもブライダルの撮影で協力を仰いでいた樋口一枝に声を掛けた。


JUNCOとチープ広石は彼女の手によって磨き上げられ、


とくにJUNCOはその後の公演においても彼女の手で彩られていった。


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樋口氏は北海道で生まれ、各地を転々とし、

東京で活動した後に米国へ向かった。


帰ってきた先は旭川。


この地で美容室を営みながら、本業の合間を縫って様々な活動を展開しているが、


歌旅座の旭川公演の多くには彼女の尽力と技術が加味されている。




変わったところでは、趣味が高じてJUNCOとともにプロデュースした


淳子乃石鹸は今でも歌旅座グッズのひとつとして人気を博している。


また、地域コミュニティにおける事業にも積極的に関わっていることも


動きを止められないという、彼女の性格を現しているだろう。


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過日の9月10日、樋口一枝は渋谷公会堂へ久しぶりに足を踏み入れた。

そこは、彼女の仕事場でもあった。


彼女自身にスポットライトが当たることはなかったが、


華やかなステージに多くのアーティストを送り出してきたひとりだった。


今回、JUNCOをはじめとする北海道歌旅座の面々に、樋口一枝独自の魔法を施した。


観客の目にどう映えたのかは、彼女がもっとも感じているところだろう。


そして、次の動きに向けて走り出すに違いない。





ある映像を見つけることができた。

東南アジア諸国連合(ASEAN)と日本・中国・韓国の計13ヵ国からシンガーを集めた、

ラーマ9世・タイ国王の在位63周年記念するコンサートの記録。

2009年5月のこと。


同国からのオファーに応えてJUNCOとヴァイオリン奏者の高杉奈梨子

日本を代表して
出演、タイをはじめとするアジア各国に生放送された際の映像だ。

ところで、JUNCOと奈梨子のメイクは現地の人の手によるものだ。

とにかく派手な美粧なのだ。「ケバい」という表現が近い。


(映像では、ダイレクト過ぎるJUNCOのメイクが帽子の影で隠れているのが救いである)


この場に樋口一枝が現場にいたら、すぐさまチークブラシを取り上げて


「あなたは引っ込んでいなさい」と日本語でタイ人を叱責しただろう。


だが、この時点では、彼女とまだ出会っていなかったのだ。



 
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J&C夕張2009z


「いっしょに飲んでいて、楽しいヤツだったから」。


チープ広石は北海道で活動する女性シンガーJUNCOとCDアルバムを制作し、

ユニットを結成して『北海道180市町村公演』をスタートさせた。

冒頭の言葉は「彼はなぜ彼女を選んだのか」と訊いて、

彼が躊躇なく答えたものである。


つまりは、2人はスタジオに籠もる以前、

何度かは不明だが、杯を交わしながらの面談の機会をつくっていたことになる。

少なくともチープはJUNCOにある種の可能性を認めていたに違いない。

だから、彼女を呼び出した。

JUNCOもチープと出会って新たな才能を導き出してくれることを期待していたはず。

だから彼の呼びかけに応じた。

両人に共通していたのは、酒を飲みながら語らうことが好きだったこと。

いや、もしかしたら、酒を飲むことが好きで、語らいは肴代わりだったかもしれない。


そして、お互いにもっていたであろう警戒心を少しずつ剥がしてゆき、

冗句を言い合って反応を確かめ合い、ひとつの覚悟を決めたのだ。

政治家でも会社員でも、また、出会ってまもない音楽家同士だとしても、

多くの場合、酒席とは古くからそういうものだ。




JUNCO & CHEEPとして最初のステージが夕張市で決定したことに伴い、

2人には腹案があった。『北海道180市町村公演』を開始する記念テーマとして、

夕張を象徴するような新曲を現地で披露することだ。

ただし、「頑張れ、立ち上がれ」といった、エールを送るような内容は避けたかった。

同市での生活経験もなく、まして親戚縁者もいないヨソ者がそう歌っても現実味に欠け、

ただの偽善として感じられてしまう不安もあったからだ。


ゆうばり国際ファンタスティック映画祭は1990年にはじまり、

以来「映画の街」として全国に知られるようになっていた。

同市随所には名作といわれる映画作品の手書き看板が掲げられている。

意を得た2人は映画を題材とした楽曲づくりに取りかかった。




前後して、2人を記録するために、ある男が現れた。

飯塚達央は、JUNCO & CHEEPが最初の舞台に立つ以前から

彼らをレンズ越しに見つめてきた。

また、それ以降も公演会場のどこかで、あるいは自身の撮影スタジオで

複数の写真機を器用に駆使して2人にフォーカスをあわせてきた。

JUNCO & CHEEPから北海道歌旅座の様々な局面に、彼はいた。


実は、渋谷公会堂公演にも彼の姿が確認されている。

が、この時点において、それはまだ遠い未来の話だ。



飯塚達央は関西の生まれで、1996年より北海道に移り住んでいた。

スタッフが道内の写真展やJR北海道の車内誌に彼の名前と作品を見つけた。

さっそく飯塚氏にコンタクトをとった。これは、巡り合わせである。

彼は幸福に包まれる家族やカップルらの人物撮影で評価を高めてきたが、

本領は北海道の自然や寂れた街角の風景などにも発輝される。

JUNCO & CHEEP、そして、夕張という街は格好の舞台だ。

飯塚氏による2人のアーティスト写真は、2009年1月に記録された。


同時に映像チームが組織され、プロモーションビデオの撮影も
夕張市民会館を借り切っておこなわれた。

屋外のロケでは氷点下15度のなかでビデオカメラを回し続け、

夕張の街を散策する壮年の男女の姿を収録した――この2人は誰? 正体を明かすのは野暮。




果たして、楽曲は仕上がり、プロモーションビデオも完成した。

その演奏と映像は、夕張のステージで初披露された。

「名画座」は、当時の彼らが制作中のファーストアルバムに収録され、

その後、数々の公演でオープニングを飾ることになる重要な曲となった。 


 


なお、巻頭の写真は最初期のJUNCO & CHEEPを捉えた、飯塚達央の作品である。

 


(つづく)







謝意  飯塚達央さんと斉藤康仁さんへ。

 

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